第103章 解析 ― ガラス越しの沈黙
成田空港から搬送された遺物は、厚い鉛封ケースのまま国際考古学研究センターに運び込まれた。
白い壁と無機質な照明に包まれたラボは、洞窟の湿った暗黒とはまるで別世界だった。だが、そこに収められた骨と石器は、何万年もの時間を抱えたまま、沈黙を守っていた。
まず、到着確認。マーカスが書類を睨みつけながら、輸送中の温湿度データをチェックする。
「異常なし。揺れも許容範囲。」
彼の口調は軍人の報告そのものだったが、背後にあるのは安堵だった。
ガラス越しに白衣の研究者たちが集まる。アリヤ博士は深呼吸をしてから、担当技官に頷いた。
「封印を解除してください。」
――カチリ。
鍵が外され、内側のパッキング材が慎重に取り出される。シリカゲルはまだ乾いたまま、骨片はわずかな欠損もなく保たれていた。
「……本当に、戻ってきた。」
井上美佳は思わず呟いた。ファインダー越しではない、肉眼で見る骨と石器。だがラボの蛍光灯の下にあるそれは、不思議なほど現実味を帯びていた。
属と種をめぐる最初の検討
アリヤ博士が骨片をライトボックスに置く。
「まずは頭蓋の断片から。厚みを見てください。」
スーザンがキャリパーを当てる。
「7ミリを超えている……これはサピエンスでは薄すぎる。エレクトスに近い。額も低く、眉弓が発達していたはず。」
佐久間は顎をさすりながら呟いた。
「つまり、この洞窟にいたのは……頑丈で、前に突き出した顔の人間か。」
彼は専門家ではない。それでも洞窟の闇で感じた存在の像が、科学的に補強されていくのを直感した。
さらに別のケースから歯が取り出された。
ラファエルが顕微鏡に覗き込み、記録係に指示を出す。
「モラ―の咬合面が広い。咬耗が激しいが、歯根はしっかりしている。加工食品ではなく、硬い繊維質を噛んでいた痕跡だ。」
「アウストラロピテクスと比べると?」と美佳が問いかける。
アリヤ博士は少し間を置いて答えた。
「歯列はより人間的。だが、もし同じ地層から両者が出たなら、時代の整合性は大きな問題になる。」
その言葉に研究室の空気が張りつめた。
時代が異なる種が、同じ場所に、同時に存在していた可能性――進化史の常識を揺るがす事態だ。
石器文化の分析
別テーブルでは石器の整理が進んでいた。
スーザンが一つの剥片を手に取り、光を当てる。
「これは両面加工……アシュール文化の典型だ。大型だが仕上げは粗い。」
ラファエルが隣から別の小型石器を示す。
「こちらは明らかにフレーク。ルヴァロワ的な剥離痕がある。ムスティエに近い……だが、時代が合わない。」
「二つの文化が混在している?」
アリヤ博士は眉を寄せる。
「そうだとすれば、単独の群れではなく、異なる系統の人類がこの洞窟を共有していた可能性がある。」
佐久間は腕を組んだ。
「つまりここは……“交差点”だったわけか。」
ラボの空気が一瞬、重く沈んだ。
もし異なる種が同じ場所で暮らし、道具を使い分けていたなら、それは進化史のパズルに新しいピースをはめ込むことになる。
年代測定の開始
研究員たちが骨片から微細な粉末を採取し、AMS年代測定用の試料として準備する。
「炭素14の上限を超えるだろう。ウラン系列も走らせておく。」
担当者の声は淡々としているが、その手つきには緊張がにじむ。
同時に石器の表面から残留有機物を抽出する試みも始まった。血液や植物繊維の痕跡があれば、生活行動の具体像に迫れるかもしれない。
井上美佳はカメラを回しながら、思わず独り言を漏らした。
「ここで暮らした人たちが、火を焚いて、食事をして、眠った……その証拠が、この石の刃先にまだ残っているんだ。」
結晶の観察
そして最後に、問題の六角結晶。
骨片を偏光顕微鏡に載せると、虹色の干渉縞が浮かび上がった。
スーザンが画面を指差す。
「やはり、関節部位に集中している。これが代謝性なのか、それとも外部要因なのか……」
マーカスは黙ったまま画面を見つめていた。
「……これが自然現象なら、月面の骨にも現れるはずはない。」
低い声がラボ全体に響き、誰も反論しなかった。
終わりなき始まり
夜遅く、解析は一時中断された。
白衣を脱ぎ、控室に戻った隊員たち。窓の外には東京の街灯が瞬いている。
だが、彼らの心はまだ洞窟の奥にあった。
「闇の中で拾い上げた骨が、ここで言葉を持ち始めている。」
アリヤ博士はそう呟いた。
美佳は記録映像を見返しながら思った。
(これは発見ではなく、審問だ。私たちは“証人”として呼び出されたにすぎない。)
遺物はガラスケースに収められ、赤い封印が施された。
その沈黙は、これから始まる数年単位の研究を待っているかのようだった。




