第102章 帰路 ― 遺物と共に
洞窟の闇は、最後まで彼らを試すように重くのしかかっていた。
発見された骨と石器は、すでに数度の確認と写真撮影を終え、防水ケースに収められていた。アリヤ博士の指示で、パッキング作業はゆっくりと、儀式のように進められた。
透明のポリカーボネート製ケースの内部には、酸素吸収剤とシリカゲルが入れられ、湿度を一定に保つ工夫が施されている。骨片は薄い発泡フォームにくるまれ、微細な振動でも欠けぬよう固定された。石器も同様に、個別のラベルが貼られ、出土位置や深度、GPSに代わる洞内座標が明記されたカードが添えられる。
「絶対に混同しないこと。」
マーカスが低く念を押した。彼の声は相変わらず硬いが、その手つきは驚くほど丁寧だった。
「ここから先は“輸送物”ではない。“証言者”だ。事故があれば取り返しがつかない。」
井上美佳は、その光景を黙ってカメラに収め続けた。
レンズ越しに見える仲間たちの顔は疲労で濡れていたが、同時に奇妙な静けさを帯びていた。科学者としての昂揚と、どこかで“手を触れてはいけないもの”に触れてしまった畏怖。その両方が入り混じっている。
結晶の刻まれた骨片を収めるとき、アリヤ博士は思わず指先でケースの縁をなぞった。
「……これは持ち出すためではなく、守るための封印ね。」
彼女の声は独白のように小さかったが、誰も異を唱えなかった。
出発準備が整ったのは夜明け前だった。
ドライチャンバーの暗闇に、テントの明かりが最後の影を落とす。ランプを消すと、洞窟は一瞬にして全てを呑み込む深い闇に戻った。
「帰ろう。」
佐久間遼が短く言った。その声には達成感と同時に、重責を抱えた者特有の硬さがあった。
隊員たちはリブリーザーを再度背負い、ラインに沿って第一のサンプへと入水した。
水中はいつもと同じ暗黒だが、心理的な圧力は以前より重かった。背中に積んだ防水ケースが「落とすな、守れ」と囁き続ける。
佐久間は何度もラインを確認しながら進んだ。狭窄部では慎重に体をひねり、ケースを抱えた仲間に先を譲る。
呼吸音が水に響き、光が岩壁に跳ね返る。
ただの帰還なのに、一歩ごとに心臓の鼓動が速くなる。
ラファエルが小さく手を振り、減圧停止の位置を示した。全員が所定の時間を守る。ガス残量は計算通りだが、緊張のせいで時間が異様に長く感じられる。
(出口まで、あと数百メートル……だが永遠に遠い。)
誰も言葉にしなかったが、その思いは共有されていた。
ようやく洞口から差し込む青白い光が見えたとき、胸の奥から安堵の吐息が漏れた。
水面を破ると、湿ったジャングルの空気が肺を満たす。熱帯の湿度さえ祝福のように感じられた。
地上に戻ると、村の人々が待っていた。
年長の村長は黙って隊員たちを見つめ、やがて短く頷いた。
「持ち出すものは、呪いではなく祈りとなるように。」
彼の言葉を通訳した青年の声は震えていたが、どこか安堵も混じっていた。
アリヤ博士は深く頭を下げた。
「必ず、地元の協力と合意を前提に扱います。科学の名の下に奪うことはしません。」
ケースは厚手の輸送コンテナに収められ、村人たちが交代で担いだ。
湿った赤土の道を抜け、拠点のキャンプまで戻る。そこで再度ラベルが照合され、衛星通信で本部へ報告が送られた。
夜、最後のキャンプファイヤーを囲んだ。
佐久間は黙々と携行食を口に運びながら呟いた。
「命を懸けた価値は……あったな。」
誰も軽口を返さなかった。ただ火のはぜる音が夜を満たした。
帰国の日。空港の検疫エリアでは、特殊貨物として遺物が厳重に管理された。ケースは二重封印され、輸送中の温度と湿度が自動記録される仕組みが導入されていた。マーカスはそのモニターを食い入るように見つめ、輸送業者に細かい注意を繰り返した。
井上美佳は最後の一枚を撮影した。
ケースの上に貼られたラベル、「Taman Sari Expedition 202X」。その文字はただの記号にすぎない。だが、彼女のファインダー越しには、それが「人類史への新しい扉」の封印のように見えた。
搭乗ゲートをくぐるとき、アリヤ博士が小さく呟いた。
「これは終わりじゃない。ここから始まるのよ。」
飛行機のエンジンが轟き、窓の外に熱帯の森が遠ざかっていった。
洞窟に眠っていた声なき証言は、今や彼らの肩に託されていた。
それは未来の研究者たちに引き継がれるべき、重くも尊い遺産だった。




