第100章 進化か退化か ― 議論の焦点
洞窟の闇は、ランプの橙色の光によってかろうじて押し返されていた。
ドライチャンバーの中央、岩棚をならして作られた即席の食卓に、アルミパックの食料が並ぶ。温められたレトルト飯の湯気が、石壁に小さな影を作って揺れていた。
全員が黙々と食べていたが、頭の中は先ほどの議論から離れられなかった。結晶は骨の進化点に付着するのか、それとも退化点に現れるのか。その問いは誰もが口にせずとも胸の奥で反響していた。
沈黙を破ったのはアリヤ博士だった。
「私は……結晶は“進化を促すスイッチ”だと考えているの。」
スプーンを置き、照明に透かしたノートを指で叩く。
「大地溝帯の大腿骨では二足歩行の証拠に結晶が現れた。ワンダーワーク洞窟では肋骨、つまり呼吸の変化と関連した。歯根や頭蓋基部に付着している例も、発声や言語の進化と重なる。これは偶然じゃないわ。」
ラファエルが椅子代わりの岩に背を預け、即座に反論する。
「いや、逆だ。僕は結晶は“退化した部分”に付着すると見ている。肋骨なら、過剰な筋肉が縮小して呼吸様式が変わった部分。大腿骨なら、樹上生活の機能が削がれていった痕跡だ。つまり、結晶は“機能を失ったサイン”なんだ。」
「退化の印……か。」と佐久間が低くつぶやいた。
ヘッドランプの光を受けながら、彼は壁に残る石灰の縞模様を指でなぞった。
「洞窟ってのは、元々流れていた水が役目を終えて残った空洞だろう? 骨の結晶も同じじゃないか。使われなくなった筋や骨に、“消失の印”として刻まれている可能性がある。」
マーカスが無言で頷いた。彼の手はアルミの食器を律儀に折りたたんでいたが、耳は議論に集中していた。
「進化でも退化でも、どちらにせよ“変化の境界”に現れるのは確かだ。」と彼が口を開いた。
「問題は、それをどう扱うかだ。もし進化を促すなら触媒だ。もし退化なら、危険信号だ。解釈を誤れば、人類史の理解そのものが狂う。」
美佳はカメラを構え直し、ゆっくりと皆の顔を撮った。
「進化か退化か、どちらにせよ“方向性”を記録する物質……そう考えられない?」
レンズ越しに見える仲間の表情は、科学者であると同時に探検者、そして恐怖を抱えたただの人間でもあった。
「進むにせよ、失うにせよ。その軌跡を“記録する”存在が結晶なんだと思う。だから私は今、この瞬間も撮り続ける。」
ラファエルは笑みを浮かべたが、その瞳には緊張が残っていた。
「美佳、君は科学者より詩人だな。でも確かに、その考えは理屈を超えている。」
スーザンは手元のスケッチに目を落としながら言った。
「進化か退化かを一義的に決めるのは早計よ。重要なのは、“機能が変わる境界に選択的に現れる”という事実。それだけでも、生物学と地質学の双方に大きな示唆を与える。」
テントの外では、洞窟の暗黒が広がっている。時折、水滴が岩を打つ音が響き、そのリズムが議論の間に重なった。
佐久間は深呼吸し、ふとつぶやいた。
「結晶は、進化の道しるべか、それとも退化の墓標か。」
その言葉に、全員が黙り込んだ。
答えはまだ遠く、闇の奥に沈んでいる。だが一つだけ確かなことがあった。——結晶はただの偶然ではない。そこに「方向性」を示す力が潜んでいる。
美佳のカメラは、再び無音で記録を続けていた。




