第93章 石の記憶 ― 石器文化の比較
ランプの光が石器の縁を照らしていた。
湿った空気の中で、骨とともに発見された数片の石片は、不思議なほど鋭く、まだ手に馴染むような感触を残していた。
アリヤ博士が一つを持ち上げ、皆に見せた。
「見てください。この剥離痕。これはオルドワン文化の特徴に近い。ハビリスが作ったとされる“コアを打ち割って得たフレーク”です。鋭利さは十分ですが、形に一貫性がない。」
スーザンが顎に手を当てる。
「つまり、この洞窟にいたのは単純な石器しか持たなかった集団、ということになるのね。」
ラファエルが反論するように別の石片を掲げた。
「いや、こっちは違う。両面に加工痕がある。アシュール的なハンドアックスの小型版に近い。ホモ・エレクトスに典型的な技法だ。」
マーカスが低く呟いた。
「二つの文化が混ざっている……?」
アリヤ博士は頷いた。
「その可能性がある。この地域は人類の“交差点”だった。ある集団は単純なフレークを、別の集団はハンドアックスを携えていたのかもしれない。」
スーザンが補足する。
「ヨーロッパでは、ネアンデルタールが“ルヴァロワ技法”を使っていた。ムスティエ文化。核石から予め計算してフレークを剥がす――高度な計画性が必要だったの。」
ラファエルは火に照らされた石片を回しながら言う。
「そして最後がサピエンス。ブレイド技法だ。長く薄い刃を量産できる。骨や角と組み合わせ、槍、針、装飾品に発展した。石器は小型化し、用途は多様化した。」
井上美佳がファインダー越しに石片を追いながら口を開いた。
「つまり、石器が複雑になるほど、彼らは多様な環境に対応できたということですね。」
アリヤ博士は微笑んで頷いた。
「ええ。石器の進化は単なる技術ではなく、“人口維持の戦略”でした。複雑な石器を持つ集団は効率よく資源を使え、大きな社会を支えられた。単純な技術しか持たない集団は、環境変化に取り残された。」
マーカスが短く言った。
「道具の差が、生存の差を決めたわけだ。」
スーザンは声を潜めた。
「でも忘れてはいけない。この洞窟で見つかったのは“混ざった石器”よ。オルドワン的でもあり、アシュール的でもある。境界にいた人々の姿を物語っている。」
ラファエルが炎を見つめながら呟いた。
「つまり、彼らは“分岐の只中”に生きていた。進化の波の中で、選ばれず消えていった者たちだ。」
その言葉に、場が静まり返った。
井上はカメラを回し続けながら思った。
(ここにいた誰かが、石を割り、手に取り、光の届かない洞窟で生きようとした。その証が今も残っている。)
アリヤ博士が締めくくった。
「この石は、ただの道具ではない。人類がどのように未来を掴み、どのように取り残されたのか――その記録なのです。」
火がはぜ、洞窟の壁に影が揺れた。
彼らの前に置かれた石片は、まるで時代を超えて語りかける“石の記憶”そのものだった。




