第92章 比較 ― ヒト属の多様性と交差
ランプの炎がゆらめく。
蝙蝠の羽音が遠くでこだまする中、チームは石器と骨片を中央に置き、静かに見つめていた。
アリヤ博士が口を開いた。
「私たちが今見ているのは、おそらくホモ・ハビリス、あるいはアウストラロピテクスに近い骨片。だがここから考えるべきは、“ヒト属全体の系統樹”です。」
スーザンがメモをめくる。
「ヒト属の主要な枝は、大きく分けてこうなるわ。
•ホモ・ハビリス:石器を使った最初の人類。脳容量600〜700cc。
•ホモ・エレクトス:火とアシュール石器でユーラシアに拡散。脳容量900cc以上。
•ネアンデルタール人:ヨーロッパ・西アジア。寒冷地適応。頑丈な体格。
•デニソワ人:シベリア、チベット高地でDNAのみから判明。高地適応遺伝子を持つ。
•ホモ・サピエンス:我々。記号・言語・交換ネットワークで世界を覆った。」
ラファエルが石器を指でなぞりながら言った。
「ハビリスやアウストラロピテクスがもしここにいたなら、彼らはその後の“主役交代”に加われなかったわけだ。なぜか?」
マーカスが低い声で返す。
「生存競争に負けたからだろう。脳が小さすぎ、集団規模も小さかった。大陸を渡るには脆弱だった。」
アリヤ博士は首を横に振った。
「それだけではありません。ネアンデルタールやデニソワでさえ絶滅した。サピエンスだけが生き残った理由は、身体能力ではなく“文化的適応”にあったはずです。」
美佳が問いかける。
「ネアンデルタールはサピエンスと同じくらいの脳を持っていたのに、どうして絶滅したんですか?」
スーザンが即答した。
「彼らの石器――ムスティエ文化は高度だったけれど、大型獲物に依存していた。氷期が終わり、環境が変化したときに食料戦略を切り替えられなかったのよ。」
ラファエルが続ける。
「デニソワ人はもっと特異だ。遺伝子はチベットのシェルパに残っている。高地適応能力があった。でも人口が少なすぎ、広がれなかった。環境に特化したがゆえに、絶滅したんだ。」
佐久間が腕を組み、ぼそりと呟く。
「つまり、広く生き残れたのは“どこでも暮らせる柔軟さ”を持ったサピエンスだけ、ってことか。」
アリヤ博士が頷いた。
「ええ。言語、交換ネットワーク、文化的多様性。サピエンスは“違う集団とつながる力”で人口を維持し、遺伝子を混ぜ合わせた。他のヒト属は孤立し、やがて消えていった。」
マーカスが骨片を見つめながら言った。
「だが、この洞窟に眠っていた者たちは、その前段階だ。まだ大きな集団を持てず、道具も原始的。それでもここまで来た。……それ自体が驚異だ。」
井上美佳はファインダーを覗き、静かに記録しながら思った。
(ここにいた彼らは、私たちと同じ“人間”だった。言葉も不完全で、道具も粗末でも、この洞窟で火を焚き、水を飲み、生きようとした。その痕跡が今、私たちの前にある……。)
ラファエルが小声で結んだ。
「ネアンデルタールも、デニソワも、ハビリスも。みんな“人類”だった。絶滅したかどうかは関係ない。今、ここにその証人がいる。」
アリヤ博士は重々しく言った。
「その通りです。この発見は、単に一つの化石ではない。人類史を織りなす“消えた枝”が、ここで再び語り始めているのです。」




