第90章 証言者なき証言 ― 骨と石器
湖面を渡って反対岸に到達したとき、佐久間遼のライトが偶然、壁際の崩落堆積に反射した。
白く、そして不自然に直線的なものが、泥の中から突き出していた。
「……骨か?」
彼が泥を手で払いのけると、それは人の腕の骨だった。だが細すぎる。現生人類やエレクトスに比べ、あまりにも華奢で短い。
スーザン・チャンが近づき、ヘルメットライトを当てた。
「これは……上腕骨。けれど厚みが薄い。断面は丸みを帯びていない。まるで……アウストラロピテクスのようだ。」
「ありえない!」
ラファエル・オルティスが声を上げた。
「アウストラロピテクスはアフリカ限定だ。東南アジアに来たはずがない!」
アリヤ博士は震える声で言葉を継いだ。
「それだけじゃない。見て、ここにある頭蓋骨片……低い前頭部、厚い顎骨。これはホモ・ハビリスの特徴に近い。」
全員が息を呑んだ。
――ホモ・ハビリス。約200万年前、アフリカで最初に石器を扱った人類。
――アウストラロピテクス。さらに古い、直立歩行の先駆者。
なぜ彼らの化石が、ここマレーシアの洞窟奥深くに眠っているのか。
井上美佳がカメラを回し続けていた。
ファインダー越しに映る骨は、科学の常識を裏切る存在だった。
(……これが本当にハビリスなら、人類の拡散史が根底から覆る。)
だが衝撃はまだ続いた。佐久間が泥の中からさらに石片を引き上げたのだ。
「……これは。」
手の中に現れたのは、粗雑だが明確に加工された礫石だった。
片側は鋭利に剥離され、もう片側は握りやすいように残されている。
「オルドワン型だ。」
スーザンが即答した。
「これはハビリスが作った最古の石器。切断、叩打に使われた典型。」
アリヤ博士は額に手を当てた。
「つまり……ここにはハビリスが存在し、アウストラロピテクスも何らかの形で到達した可能性がある。」
ラファエルは首を振りながら叫んだ。
「いや、これは錯覚だ! 堆積が混ざっただけだ! アフリカから数千キロも離れたここに、なぜ彼らが?」
だがマーカスが低い声で言った。
「……答えはどうあれ、事実はここにある。骨と石器が同じ層に残されている。」
沈黙が広がった。
巨大ホールの暗黒が、まるで彼らの議論を嘲笑うかのように響いていた。
アリヤ博士は、震える声で続けた。
「考えられるのは二つ。
ひとつは、地質的な混合。古い層が流れ込んだ。
もうひとつは……我々が知らない“拡散”が本当にあった。」
彼女の目には涙が浮かんでいた。
「もし後者なら、人類史を書き直す必要がある。エレクトス以前に、アジアに到達した系統がいた可能性がある。」
スーザンは小声で呟いた。
「頭骨の厚みはエレクトスより薄い。顎骨は頑丈だが、歯列は小さい……。確かにハビリスの特徴だ。」
ラファエルは震える手で石器を持ち上げ、ライトを当てた。
「剥離痕……確かに人為的だ。自然割れではない。」
美佳はファインダー越しに、その光景を焼き付けていた。
骨と石器。原初の人類の証言。
(……これはただの遺物じゃない。人類が“ここにいた”と叫んでいる。)
マーカスが低い声で言った。
「だが、ここから持ち出すのは危険だ。崩落もある。水没部を戻れる保証はない。」
佐久間は黙って頷いた。
彼の胸の内には、別の感覚があった。
(この闇の奥で、かつて彼らは火を焚き、石を打ち、肉を切ったのかもしれない……。)
ランプの光に浮かぶ骨と石器。
それは、数百万年前の存在たちが残した、声なき証言だった。
アリヤ博士は最後に静かに言った。
「記録し、保護し、持ち帰るべきかは、ここで決めない。だが忘れないで。これらは“人類史の証人”だ。」
洞窟の闇は、再び重苦しい沈黙を落とした。
彼らの発見は、人類進化の教科書を根底から揺るがすかもしれなかった。




