第89章 最奥 ― 未踏の大空間
水面を破った瞬間、全員の目に信じがたい光景が広がった。
ヘルメットライトの光束は、ただの洞窟の天井ではなく、はるか彼方へと続く闇に吸い込まれていった。
「……大きすぎる。」
佐久間遼がヘルメットを上げ、震える声で呟いた。
そこは幅200メートル、高さ50メートル以上はある巨大なホールだった。水面は静まり返り、光を受けて黒曜石のように光る。まるで地下に隠された鏡の湖だった。
頭上からは石灰岩の鍾乳石が無数に垂れ下がり、いくつかは長さ10メートルを超えていた。滴る水滴の音が反響し、巨大な聖堂に響く鐘のように耳を打った。
「これが……ブルー・チャンバーの奥。」
アリヤ・ハサン博士の声は震えていた。彼女の胸には考古学者としての高揚と、人類未踏の空間に足を踏み入れた畏怖が同居していた。
美佳はすぐにカメラを構えた。
高感度レンズを調整し、シャッターを切る。ファインダー越しに見えるのは、人の存在を拒むかのような巨大な暗黒。
「……言葉じゃ残せない。記録するしかない。」
彼女は呟き、三脚を組み、360度カメラを水面に固定した。反射する光がレンズに入り、湖面はまるで別世界への入口のように映し出された。
ラファエル・オルティスは、水際に身を屈め、ヘッドランプを揺らしながら湖面を凝視していた。
「見ろ、あそこ。魚影だ……いや、眼が退化してる。盲目魚だ。」
小さな白い魚が群れをなして泳ぎ、光に驚くことなく漂っている。皮膚は薄く、血管の赤が透けていた。
「新種の可能性が高い。DNAサンプルを取る。」
ラファエルは小型の吸引採取器を取り出し、水面近くの魚を静かに捕獲した。容器の中で泳ぐ姿に、彼の顔は少年のように輝いた。
「数十万年、この空間だけで進化したんだ……。」
スーザン・チャンは水際の岩壁に目を凝らしていた。
岩肌には縞模様が走り、明らかに過去の水位変動の痕跡だった。
「……見て。ここに水位線。最低期と最高期の差は15メートル近い。つまり氷期と間氷期でここは何度も顔を変えたのよ。」
彼女は岩を削り、小瓶に収めた。石灰岩の粒子は時間の堆積そのものだった。
マーカス・ケルナーは何も言わず、安全器材の点検を続けていた。
だが、その眼差しはどこか遠くを見ていた。
「……ここに来た者は、帰らないと言われてもおかしくない。」
彼の声は小さかったが、巨大なホールに反響し、全員の胸に響いた。
アリヤ博士は湖岸に膝をつき、ライトを壁に向けた。
岩壁にはわずかな黒いシミが残っていた。
「……これは火の痕跡? いや、水没前のものかもしれない。」
彼女は岩片を削り、ラベルをつけて防水ケースに入れた。
胸の奥で何かが震えていた。
(もしここに人がいたのなら……彼らは何を見て、何を残したのだろうか。)
静寂が降りた。
遠くで水滴が落ちる音だけが響く。
巨大な空間は、ただそこに存在していた。数十万年もの間、人類の眼差しに触れることなく。
美佳がカメラを止め、静かに呟いた。
「……人類がまだ知らなかった空間。ここはまるで、時間そのものの奥だ。」
アリヤ博士はゆっくりと立ち上がり、仲間たちを見渡した。
「記録して、採取して、持ち帰ろう。でも忘れないで。ここは、我々のものではない。人類史の証人として、ただここにあったのだ。」
全員が頷いた。
その瞬間、巨大な空間は彼らを包み込み、まるで人類の歴史全体を見つめ返すかのように沈黙を保ち続けていた。




