第87章 ドライチャンバー ― 中間キャンプ
岩肌を抜けた先に、唐突に空間が広がった。
ライトの光が届く範囲だけでも数十メートルの高さ、広さ。黒々とした天井からは冷たい水滴が落ち、石灰岩の床に規則正しいリズムを刻んでいた。第三のサンプを突破して辿り着いたのは、かつて誰も足を踏み入れたことのない「ドライチャンバー」だった。
佐久間遼がヘルメットを外し、深い息を吐いた。
「……空気だ。」
湿った空気が肺に入り、リブリーザー越しの人工的な呼吸とは違う感触が全身に広がる。仲間たちも次々にマスクを外し、顔を上げた。
マーカス・ケルナーは無言で腕時計型の酸素濃度計を確認した。数値は正常。彼は頷き、機材を置いて「安全」とだけ告げた。
井上美佳はすぐにカメラを構え、天井の鍾乳石と滴り落ちる水の光景を記録した。レンズ越しに映る光景は、まるで地下聖堂のようだった。
隊は岩場の一角を整地し、軽量テントを張った。LEDランタンを吊り下げると、闇は一気に後退し、白い布がぼんやりと輝いた。小型のバーナーを点火すると、火の音が洞窟内に響き渡り、冷たい空間にわずかな温もりを与えた。
スーザン・チャンは濡れたスーツを脱ぎ、ノートを広げた。地質調査の記録をつける手は疲れていたが、瞳は興奮で輝いている。
「ここの岩壁、沈水の痕跡が薄い。つまりこのチャンバーは比較的長く“陸”だった可能性があるわ。化石が残っているなら、この周辺よ。」
ラファエル・オルティスはパック食料をバーナーで温めながら笑った。
「腹が減ってる時に化石の話か。まあ、ここに骨や生き物がいたなら、この広さにも納得だ。コウモリの声がまだ響いてるしな。」
確かに、天井の奥から鋭い鳴き声が反響していた。蝙蝠が群れで飛び立つたび、羽音が闇を震わせた。
アリヤ・ハサン博士は、温かいスープを口にしながら、仲間たちを見渡した。
「……ここまで命を懸けて進む意味は何か。そう思う?」
沈黙が落ちた。水滴の音とバーナーの燃焼音だけが響いた。
マーカスが口を開いた。
「意味など無い。危険を減らし、帰還する。それが私の役目だ。だが博士が言う“意味”は……おそらく科学のことだろう。」
ラファエルが笑い飛ばすように言った。
「俺は新種の盲目魚でも、未知の甲殻類でもいい。ここに生態系が残っていれば、それだけで世界に発表できる。俺の意味は単純さ。」
スーザンは首を横に振った。
「私は、化石や堆積物から“時間”を読むことに意味を感じる。人類の痕跡があれば、それはこの地域の歴史を塗り替える可能性を持つ。」
井上美佳はカメラを抱えたまま、小さく呟いた。
「私は……映像を残すこと。それが意味だと思う。人類がここに辿り着いた証拠を、未来に残す。それだけで充分。」
佐久間はしばらく黙っていたが、やがて手に持ったマグを置いた。
「俺にとっての意味は……“繋がること”だな。洞窟は生き物じゃない。ただの岩と水の空間だ。だが、そこに骨があれば、その瞬間だけは歴史と繋がる。俺たちは過去と今をつなぐために潜っているんじゃないか。」
アリヤは深く頷いた。
「それぞれの意味が、ここで交わる。科学、文化、記録、そして生きて帰ること。その全部を合わせて、初めて“遠征”になる。」
その言葉に全員が静かにうなずいた。
外ではジャングルの音も届かず、ただ洞窟の呼吸のような風が流れていた。蝙蝠の鳴き声が遠のき、滴る水の音が規則的に響く。光に照らされたテントの内側では、隊員たちが互いに身を寄せ合い、温かい食事を分け合った。
ドライチャンバーは中間地点。まだ帰還まで数時間、さらに奥に未知の空間が待つ。
それでも、彼らは短い休息の中で「なぜここまで命を懸けるのか」という問いに、それぞれの答えを刻んでいた。
そして誰もが理解していた。
この夜の議論こそが、後に彼らの遠征を語る時の「核心」になるだろうと。




