第85章 第3のサンプ ― 長距離心理圧
水の中は、時間という概念を奪う。
第三のサンプに入った瞬間から、隊員たちは「出口が遠すぎる」という現実を骨の髄まで感じていた。
佐久間遼が先頭でラインを延ばす。リールから送り出される白いラインは、唯一の帰還路。ライトの光が届くのは半径わずか数メートル、その先は闇しかない。
(ここから帰るのに……最低でも三時間はかかる。)
佐久間の胸は重くなった。酸素やヘリウム、窒素の混合比を頭の中で繰り返し確認する。CCRが静かに作動しているはずなのに、呼吸音がやけに大きく耳を打った。
後方ではマーカス・ケルナーがステージボトルをデポしながら残圧を記録している。その几帳面な動きが、逆に緊張感を増した。一本の数字が狂えば、帰還そのものが絶望に変わる。
ラファエル・オルティスのライトがふらついた。
彼は暗闇の中で手を挙げ、減圧停止のポジションを取ろうとした。
佐久間は即座に気づいた。
「ラファエル、まだだ!」とマスク越しに叫ぶ。水中では声は泡に消えるが、強いジェスチャーで制止した。
ラファエルは一瞬戸惑い、計器を確認して顔をしかめた。
彼は減圧深度を誤解していた。深度計の読み取りを焦り、数十メートル手前で停止しようとしていたのだ。もしそのまま減圧を始めれば、酸素消費は増え、しかも体内ガスの調整に失敗する。致命的なリスクだった。
後方でアリヤ博士がそのやり取りを見て、胸を押さえた。彼女は潜水の専門家ではない。だが表情だけで「危険だった」と理解できた。
美佳のカメラが、ライトの光に浮かぶ隊員たちの顔を捉える。
マスクの奥の瞳には、恐怖と緊張が滲んでいた。
(出口まで何時間ある? 本当に戻れるのか?)
その問いは誰の胸にも広がっていた。
スーザン・チャンが岩壁を指差し、わずかな地層の変化をメモに残そうとしたが、すぐに手を止めた。科学的観察のための余裕は、この環境ではすぐに奪われる。
マーカスは冷徹に残圧計を確認し、佐久間に合図した。
「予定通りだ。だが余裕はない。」
誰も言葉を返さなかった。
長距離ケイブダイビングの本当の敵は、ガスでも、深度でもない。
――「距離」そのものだ。
出口があまりに遠い。数時間単位で泳ぎ続けなければ光に届かないという事実が、精神を少しずつ蝕んでいく。
ラファエルの呼吸音が早くなった。マーカスが肩を押さえ、ジェスチャーで「落ち着け」と伝える。
佐久間はラインを強く握りしめた。唯一の道筋、その細い繊維が彼らを生かしている。
そして全員が理解した。
「出口の遠さ」が、最も恐ろしい敵だということを。
暗黒の中、ライトの光が小さく震え、彼らはなおも奥へと進んでいった。




