第65章 引き上げ ― 闇から光へ
水中は依然として暗黒だった。
ドライチャンバーに近い狭窄部を越えた先、ラインの光を反射したものはただの石ではなかった。青白く煌めく模様に気づいた瞬間、佐久間遼は身を固くした。ライトを傾け、手袋越しに泥を払うと、それは明らかに骨だった。しかも、肋骨と腕の骨の外面には六角形の結晶パターンがびっしりと刻まれている。
呼吸が一瞬乱れ、CCRの呼気音が早鐘のように響く。
(これは……ただの化石じゃない。何かが“刻まれた”跡だ。)
後方から接近したマーカス・ケルナーが光をかざし、骨を見た途端、顔が固まった。普段は規律と安全しか語らない彼が、マスク越しに低く呟いた。
「……これは報告書には書けない。」
ラファエル・オルティスは目を輝かせ、サンプル容器を取り出したが、直後に手を止めた。
「触れたら崩れる……これは情報そのものだ。」
彼の声は恐怖と興奮で震えていた。
最後尾のアリヤ・ハサン博士が追いつき、光に照らされた骨を見た瞬間、息を呑んだ。彼女の脳裏に浮かんだのは、大地溝帯、ワンダーワーク洞窟、南極湖での発見——いずれも六角結晶が共通していた。そして今、それが人骨という最も直接的な形で姿を現したのだ。
「……進化の記録が、骨に刻まれている。」
その声は泡となって水に溶けたが、全員の心に深く刻まれた。
慎重に作業が始まった。
佐久間が先頭で、骨の周囲にラインを回し、揺らぎを最小限に抑える。マーカスが防水ケースを開き、ラファエルが骨片をそっと支える。
水圧と濁流に逆らいながら、わずか数センチ動かすだけでも全員の集中力を削った。井上美佳は震える手でカメラを構え、記録を続ける。レンズ越しに映る光景は神話の断片のようだった。
ついに骨はケースの中に収められ、ロックが閉じられた。ライトがケース表面を照らすと、六角結晶が虹色の光を放ち、水中全体が淡い光に満たされた。
誰も声を出さなかった。ただ、リブリーザーの規則的な作動音と、自分の鼓動だけが響いた。
(これは発見ではなく、挑戦状だ……)佐久間は心の中で呟いた。
骨を抱えてドライチャンバーへ戻る道のりは、行きよりもさらに緊張した。重量と水流が加わり、ラインを外せば一瞬で全てを失う。マーカスは後方でライトを揺らさず、佐久間の動きに合わせて進む。ラファエルは容器を両腕で抱え、命よりも大切に扱っていた。
ようやく空気のあるチャンバーに到着したとき、全員がマスクを外して深く息を吸った。湿気を帯びた洞窟の空気が肺に重く沈む。
「……やったな。」佐久間が短く言った。
ラファエルはまだ容器を抱えたまま、目を輝かせていた。
「これで人類史を書き換えられるかもしれない。」
だがマーカスは険しい顔を崩さなかった。
「持ち出すこと自体がリスクだ。ここで崩れれば全てが無になる。」
その場に沈黙が落ちた。結晶を刻んだ骨は、ただ静かに彼らを見返しているように思えた。
やがてアリヤ博士が膝をつき、静かに言った。
「これは人類の遺産。だが我々は“発見の証人”にすぎない。」
井上美佳はカメラを回しながら、その言葉を心に刻んだ。
ファインダーの中で、骨と結晶がランプの光を反射し、仲間たちの顔を淡く照らす。
興奮と恐怖、科学と信仰の間で揺れる表情を、彼女はひとつも逃さず記録していった。
洞窟の滴る水音が、時を刻むように響いていた。




