第63章 救出 ― 闇に呑まれ
「……遼が戻らない。」
その報告が口を突いて出た瞬間、ドライチャンバーの空気は凍りついた。
湿った石壁に打ち返される呼気の音が、やけに大きく響く。誰もが時計を見ていた。潜水開始から二十五分。予定より十を超えている。
洞窟という空間では、分単位の遅れが“生死”を意味する。
アリヤ博士の顔が蒼ざめた。だがすぐに唇を引き結び、言った。
「救助に行く。……マーカス、準備を。」
ドイツ人の安全管理者は黙ってうなずき、迷いなくリブリーザーを装着した。その所作は機械のように正確で、だが目の奥には緊張の影が揺れている。
「ラファエル、同行しろ。酸素の予備を持て。二人で行く。」
「了解。」スペインの生物学者ラファエルは短く答えたが、声は少し震えていた。科学者としての好奇心と、人間としての恐怖がせめぎ合っていた。
スーザン・チャンは唇を噛み、地質調査用の測定器を置いた。
「……外からの水位変化はない。急いで。だが、無理はするな。」
井上美佳は迷った。カメラを握る手が汗で滑りそうだった。
(撮るべきか……それとも今は……?)
だがマーカスが低い声で言った。
「記録を続けろ。恐怖も、真実だ。」
二人は黒い水面に潜った。
ライトの光が白い円を描くが、濁流にかき消される。
洞窟の水は、生き物のようにまとわりつく冷たさだった。
マーカスはラインを確かめながら前進する。指先に伝わる硬いロープの感触だけが、生還への細い道筋だった。
ラファエルの心臓は耳元で爆音のように鳴っていた。
(遼は何を見た……何に絡まった? 同じ罠に俺たちも……?)
不安をかき消すように、彼は必死に呼吸を整えた。
だがリブリーザーの静かな排気音さえ、洞窟の圧力に吸い込まれるように感じられた。
岩の狭窄部が迫った。
肩が岩に擦れ、金属が軋む。水路は人ひとりがやっと通れる幅しかない。
ライトの光は岩壁に反射して乱れ、闇がいっそう濃くなる。
ここで立ち止まれば、後ろのラファエルも進めず、戻ることもできない。
マーカスは自らの恐怖を押し殺し、狭窄に身をねじ込んだ。
岩が胸を圧迫し、呼吸が浅くなる。
(冷静になれ。ここでパニックになれば終わりだ。)
彼は自分にそう言い聞かせた。
後方のラファエルは、指先でラインをたどりながら呟いた。
「……ここは墓場だ。水が生きているみたいだ。」
彼の声は泡にかき消された。だが恐怖は確かに全身を覆っていた。
突然、前方に白い反射が見えた。
マーカスがライトを当てる。
岩に挟まれ、身動きできなくなった佐久間のフィンが揺れていた。
彼の体は岩の割れ目にねじ込まれ、リブリーザーのバックルが突起に絡まっている。
佐久間の目は開いていた。必死に呼吸を続けているが、限界は近い。
酸素残量のゲージが赤に傾いていた。
マーカスの胸に冷たい刃が突き刺さる。
(間に合わないかもしれない。)
だが彼は恐怖を飲み込み、必死に腕を伸ばした。
ラファエルもすぐに動いた。予備のマスクを差し出し、狭窄に体をねじ込む。肩が岩に食い込み、皮膚が裂けた。
「動け! マーカス!」
血の痛みにもかかわらず、彼は岩を押し広げようとした。
マーカスは渾身の力でバックルを引き剥がした。金属音が水中に響き、リブリーザーが外れる。
佐久間の体がふっと軽くなり、三人は絡まりながら闇の水路を押し戻った。
ドライチャンバーに戻ると、全員が駆け寄った。
佐久間は濡れた髪を乱し、床に倒れ込む。
「……詰まった。すまない。」
その声はかすれていた。
マーカスは無言で機材を点検した。
「装備に大きな損傷はない。だが次はない。」
声は冷たいが、僅かに震えていた。
ラファエルは血の滲む肩を見せつけ、強がりの笑みを浮かべた。
「人類の進化を探す前に、俺たちが退化して死ぬところだったな。」
誰も笑わなかった。
洞窟はただそこにあるだけで、人の心を圧し潰す。
その圧倒的な存在感に、誰もが打ち震えていた。
アリヤ博士は佐久間の手を握り、静かに言った。
「ここは試練の場。でも、あなたが戻った。それが今日の成果よ。」
井上美佳はずっとカメラを回していた。
映像には、恐怖に顔を歪めた仲間の姿と、洞窟という“巨大な捕食者”のような闇が残されていた。
沈黙の中、全員が理解した。
この洞窟は敵ではない。だが、挑む者すべてを試す存在なのだと。




