第62章 ドライチャンバー設営 ― 闇に灯を入れる
ライトの光が水面を揺らめかせ、暗黒の大空洞を切り裂いた。
彼らが浮上したドライチャンバーは、まるで地球の胎内のようだった。湿気を帯びた空気が肺に重くのしかかり、滴り落ちる水滴が絶え間なく小さな池を叩いていた。
佐久間遼がまず岩棚に這い上がり、グローブを脱いで壁面を確認した。
「ここなら足場が安定してる。ベースにできる。」
彼は息を整えながらそう告げ、仲間に上陸の合図を送った。
次々とマーカス、ラファエル、スーザン、井上、そしてアリヤ博士が濡れた装備を抱えて上陸する。
水面から離れた瞬間に、静寂が支配した。外界の音は完全に消え、ただ自分たちの呼吸と心臓の鼓動だけが耳に響く。
「まず照明だ。」マーカスが即座に命じた。
彼は防水ケースからLED投光器を取り出し、携帯式バッテリーに接続する。
スイッチを入れると、白色の光が一斉に広がり、天井の鍾乳石群を照らし出した。
光を浴びた結晶が虹色にきらめき、まるで無数の目がこちらを見下ろしているように見えた。
「……神殿みたいだ。」井上美佳がカメラを構え、小声で呟いた。
レンズ越しに映る光景は、どこか超自然的だった。記録者である彼女も、この瞬間ばかりは言葉を忘れた。
一方で、ラファエルは興奮を隠さなかった。
「見ろ、この湿潤環境! ここには独自の生態系が閉じ込められているはずだ。」
彼は岩の隙間をライトで照らし、小さな甲殻類を探し始めていた。
だがマーカスは厳しい口調で制した。
「生物調査は後だ。まず拠点を整える。安全が最優先。」
隊員たちは黙々と作業を始めた。
岩棚の平らな部分に防水シートを敷き、その上に小型テントを展開する。テントといっても登山用よりさらに軽量で、湿度に耐える特殊素材でできていた。
スーザン・チャンが湿度計と温度計を取り出し、数値を記録した。
「湿度は95%、温度は19度。人間には厳しいが、生命活動は十分可能な環境ね。」
彼女の声は冷静だったが、その瞳には明らかな緊張が浮かんでいた。
次に設営されたのは医療スペースだった。
マーカスがAEDと酸素バッグを並べ、高圧酸素治療キットの圧力計を確認する。
「減圧症や窒素酔いはここでも起こり得る。ここを最終ラインにする。」
彼の言葉は淡々としていたが、その裏には幾度となく死を見てきた経験の重みがあった。
井上はカメラを回し続けていた。
「テント設営、医療装備チェック……全部残しておきます。これが未来への教材になるはず。」
彼女は誰よりも静かに、しかし確固とした意志で記録を続けていた。
設営が一段落すると、隊員たちは濡れたスーツを脱ぎ、替えの衣服に着替えた。
湿った空気の中で乾燥は難しい。テントの端にロープを張り、濡れた装備を吊るすが、滴り落ちる水はすぐに地面の泥に吸い込まれた。
やがて全員が岩棚に腰を下ろし、簡易ストーブに火を灯した。
青白い炎が揺れ、凍りついたような空気をわずかに温める。
「……外界から完全に切り離されたな。」佐久間がぽつりと言った。
その声には、孤独と同時に奇妙な高揚感が混じっていた。
アリヤ博士は手帳を開き、静かに記した。
「ブルー・チャンバー、第一拠点設営完了。結晶痕跡の探索は明日開始。」
彼女の筆跡は震えていたが、それは恐怖よりも使命感の証だった。
深夜。
ライトを落とすと、洞窟内は再び闇に閉ざされた。
だが完全な闇ではなかった。遠い天井の結晶が、かすかに光を反射していた。
それはまるで、洞窟そのものが彼らを監視しているかのようだった。
誰も眠れなかった。
ラファエルは寝袋の中で何度も体を動かし、スーザンは計器を繰り返し確認した。
佐久間はナイフを手元に置き、マーカスは最後までリブリーザーを点検していた。
井上はカメラを胸に抱え、目を閉じてもシャッターを切る自分の夢を見ていた。
そしてアリヤ博士は静かに目を開け、暗闇の奥を見つめていた。
「ここには必ず……人類の痕跡がある。」
その囁きは誰にも聞かれなかったが、洞窟は確かにそれを反響させた。




