第60章 生きて帰還
岩肌は濡れ、無数の亀裂が光を吸い込んでいた。
佐久間遼は水中ライトを掲げ、慎重に浮力を調整しながら狭い通路を進む。ヘルメットに反響する自分の呼吸音が、まるで心臓の鼓動と同調するかのように重く響いた。
――生きて帰る。それだけを考える。
頭の中で繰り返す言葉は、隊員全員の共通認識だった。
「I do everything I can not to die while diving.(潜っている間、死なないためにできることをすべてやる)」
それは教科書の格言でも、英雄的な誓いでもない。ただ現場に生き残る者たちの実感だった。
背後ではマーカス・ケルナーが、赤いガイドラインを指でなぞり、確認の合図を送る。ラインは唯一の命綱。視界がゼロになっても、これさえあれば帰還できる。彼の几帳面な動きは冷酷に見えるが、実際には命を繋ぐための祈りに等しかった。
さらに後方で、アリヤ・ハサン博士が岩肌にライトを当て、メモを取っていた。
「この層……沈殿物が厚い。もし骨があるなら、この下に眠っている可能性が高い。」
彼女の声はレギュレーター越しにくぐもっていたが、その熱意は仲間たちを前へと押し出す力になった。
ラファエル・オルティスは水槽のような透明バッグを抱え、岩陰を覗き込む。
「盲目魚がいた。結晶の沈着が見られれば、進化の証拠になる……!」
科学者としての好奇心が恐怖を押しのけ、彼の目を輝かせていた。
井上美佳はそんな仲間たちの姿を、カメラ越しに切り取った。ファインダーの中では、光に浮かぶ人影が巨大な地底の闇に溶け込んでいく。彼女は思った——もし誰かがここで帰らぬ人となっても、その瞬間すら記録するのが自分の役割だと。
洞窟の奥へ、彼らはさらに潜る。
圧力は増し、暗闇は深まり、岩の裂け目は人ひとり分しかない狭さに変わっていく。
その緊張の中で、佐久間は心の中で呟いた。
「死なないためにできることを全部やる。それだけが、この闇を越える唯一の方法だ。




