第57章 準備 ― 沈黙の計算
夜のベースキャンプ。
ジャングルの湿気がテントにまとわりつき、発電機の低い唸りが遠くで続いている。
隊員たちは、ランタンの下で黙々と準備を進めていた。
減圧表
マーカス・ケルナーは折り畳み机の上に広げたラミネート表に赤ペンを走らせていた。
「深度 70m、底滞在時間 25分。昇降速度毎分 9m。」
彼は計算尺を動かし、数字を無表情に読み上げる。
「減圧は 21m で 5分、15m で 15分、9m で 25分、6m で 40分。合計で一時間半の浮上プロファイルだ。」
佐久間遼が横から覗き込み、眉を寄せた。
「余裕を見て、6m のステージは 50分に延ばそう。洞窟だから予測外の動きで時間が増える。」
マーカスは無言で頷き、修正を記入する。
テーブルには三種類の減圧表が並んでいた。
「計画通りのケース」「10分延長のケース」「緊急早期撤退のケース」。
どれも数字が冷徹に並ぶが、その裏には「命の値段」が隠されていた。
予備ガスのマーキング
テント前では、銀色のシリンダーがずらりと並んでいた。
ラファエル・オルティスはガムテープを切り、一本ずつ首に貼っていく。
赤テープは酸素、青はヘリウム混合、緑はナイトロックス。
「間違えれば即アウトだ。」彼は独り言のようにつぶやき、ペンで大きく数字を書き込む。
佐久間が確認に来て、バルブを叩いた。
「これ、残圧 180 しかないな。満タン交換。」
ラファエルが渋い顔をする。
「輸送で消耗してたか……。だからこそ二重三重のチェックだな。」
マーカスは遠くから厳しい声を飛ばした。
「マーキングを怠るな! 光の届かない場所で色だけが頼りだ。」
その言葉にラファエルは小さく舌打ちしたが、真剣さを崩さず作業を続けた。
役割分担
大型テントのホワイトボードには、アリヤ・ハサン博士が書き込んだ文字が並んでいた。
•潜水チーム:佐久間・マーカス
•サンプル採取:ラファエル
•地質観測:スーザン
•記録:井上
•総指揮・調整:アリヤ
博士は一人ひとりの目を見ながら確認する。
「佐久間とマーカスは先頭と殿を守る。ラファエルは採取に集中するが、必ず佐久間の指示を待つこと。スーザンは観測を迅速に。美佳、あなたの記録が全世界に発信される。私の役目は最後の判断だ。」
沈黙の後、全員が頷いた。
それは重圧ではなく、「逃げ場を断つ誓い」に近かった。
心の中の計算
井上美佳はレンズを拭きながら、心の奥で別の「減圧表」を計算していた。
(何時間撮り続けられるか。どこまで光を耐えさせられるか。バッテリーを交換する余裕はない……。)
ラファエルはサンプル容器を握りしめていた。
(この水の奥で見つかるものが、進化の証拠か、それともただの石か……。)
スーザンは地図を見つめていた。
(雨が降れば水位は上がる。時間との戦いだ。地質が敵になるかもしれない。)
そして佐久間は、減圧表の数字を目で追いながら、心の声を押し殺した。
(帰れる保証はない。それでも行くしかない。だが……必ず戻る。)
ランタンの光の下、彼らは一晩中準備を続けた。
減圧表に書かれた数字は、冷たく無機質な計算のはずだった。
だがその一行一行が、彼らの呼吸と鼓動を縛りつけていた。
翌朝。
シリンダーの群れは整然と並び、ホワイトボードには役割分担が刻まれていた。
洞窟の奥へ向かう前の夜は、こうして無言の計算とチェックに消えていった。




