第56章 マレーシア水中洞窟調査 ― 地上での器材準備)
岩肌に囲まれた窪地に、次々と黄色いシリンダーが並べられていく。
金属が擦れる音、圧力計の針が跳ねる音、そして短く鋭い呼気。
その場には、水中に潜る前の、地上でしか味わえない緊張が漂っていた。
佐久間遼は無言でバルブを開け、わずかな気泡の漏れを耳で確かめた。
「問題なし。」
短く呟くその背中を、マーカス・ケルナーがじっと見ていた。
「シリンダーは一度たりとも裏切らない。裏切るのは、いつも人間だ。」
マーカスの言葉は冷たいが、仲間を守るための信念でもあった。
井上美佳は機材の間を縫うように歩き、カメラで作業風景を撮影していた。
岩に腰を下ろす佐久間の手元、汗を拭わずに調整を続けるマーカスの横顔。
「……技術は人の心を隠さない。」
レンズ越しに見えるのは、熟練の技術に裏打ちされた“恐怖の管理”だった。
ラファエル・オルティスは片膝をつき、ガラス瓶に保存液を注いでいた。
「魚や甲殻類のサンプルは、ここから先でしか採れない。小さな失敗でも、すべてを無駄にする。」
彼の声は普段の快活さとは違い、硬く低かった。
その横で、スーザン・チャンが地図を広げていた。
赤鉛筆で記された層理線が、洞窟の成り立ちを物語る。
「このシステムは数万年前に水没した。……つまり、今から潜る場所は“時間の化石”よ。」
アリヤ・ハサン博士は、全員を見渡し、静かに言った。
「ここに集まったのは、単なる技術者や学者ではない。
命を懸けて、未来の人類史を描き直そうとしている仲間だ。」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
ただ、手の中の器材を確かめる音だけが、重く沈黙を破っていた。
次に彼らが潜るとき、この岩壁の上には空のシリンダーが並ぶかもしれない。
それでも全員が理解していた——準備こそが生と死を分ける唯一の境界線だと。




