第55章 入洞 ― 闇の入り口
東の空がまだ淡く白むころ、ジャングルの奥はすでに蒸気を含んだ熱気に満ちていた。
隊員たちは一列になって湿った獣道を進む。背にはシリンダー、前には器材の入った大きな防水ケース。蚊の羽音がまとわりつき、足元では赤茶色の土がじっとりと汗のように滲み出していた。
前を行く佐久間遼は、腰に下げたカラビナがぶつかる音を微かに響かせながら、葉を払い進む。マーカス・ケルナーはその後ろで、冷静に足元を見極めつつ荷物を担いでいた。
「湿度が高すぎるな。ガスシリンダーの温度補正をもう一度計算しておいた方がいい。」
ドイツ訛りの硬質な声が、背後の隊員たちに届く。
「分かってる。入口で最終確認だ。」佐久間は短く答え、枝を折った。
やがて樹木が切れ、視界が開けた。
目の前に現れたのは、黒々と口を開けた巨大な洞窟の入口だった。石灰岩が垂直に切り立ち、その底に闇が沈んでいる。湿った空気がゆっくりと吐き出され、森の熱気と混じり合う。
村の長老と青年たちがすでに待っていた。長老は両手を合わせ、低い声で祈りを唱えている。
「ここは“戻らぬ者の穴”。水の底には、魂を縛るものが眠る。」
通訳を介して伝えられた言葉に、一瞬沈黙が落ちる。ラファエルは眉をひそめ、スーザンは静かにメモを取った。井上美佳は、その祈りの姿をカメラで収め、ファインダー越しに緊張を記録した。
アリヤ博士は一歩前に出て、長老に深く頭を下げた。
「我々は冒涜のために入るのではありません。あなた方の土地の記憶を未来に残すためです。」
彼女の声は震えていたが、言葉には確かな力があった。
長老はしばらく目を閉じてから、小さく頷いた。
準備が始まる。
佐久間とマーカスが洞窟入口の岩肌にスプールを取り付け、黄色のラインを奥へ伸ばしていく。金属のカラビナが岩に触れてカチリと響く音が、森のざわめきに重なった。
「ラインテンション、良好。」
「確認。」マーカスが短く返す。
ライトが水面を照らすと、漆黒の流れが現れた。表面はほとんど動きを見せず、鏡のように闇を映している。しかし奥へ目を凝らすと、かすかな逆流が波紋を立てていた。
ラファエルが低く呟いた。
「……ここから先は、戻れぬかもしれない。」
その声は誰に向けたものでもなく、水面に吸い込まれて消えた。
アリヤ博士が隊員たちを振り返った。
彼女の顔には緊張も恐怖も浮かんでいたが、それを押し込める強さも同居していた。
「歴史の奥へ、進みましょう。」
一人目が水面を割った。佐久間遼だ。マスク越しに冷水を感じながら、静かに身体を沈めていく。続いてマーカス、ラファエル、スーザン、井上、最後にアリヤ。
次々にヘッドライトが闇を切り裂き、白い光の帯が水中に消えていった。
村人たちは黙って祈り続ける。外の世界では朝日が昇ろうとしていたが、隊員たちを飲み込む水の底には、時間すら存在しないように見えた。
こうして、マレーシア水中洞窟調査隊は未知の闇へと第一歩を踏み出した。
その一歩が、人類史を照らす光になるのか、あるいは永遠の沈黙へと続くのか――誰にも分からなかった。




