第53章 文化と倫理の議論
夜のジャングルは、昼間の喧騒とは別の顔を見せていた。湿った空気の中に無数の虫の声が重なり合い、時折、猿の遠吠えが森の奥から響く。ベースキャンプの焚き火の周囲では、隊員たちが輪になって腰を下ろしていた。炎の赤い揺らぎが顔を照らし、光と影が交互に浮かび上がる。
井上美佳のカメラが、その場面を静かに記録していた。普段なら無口なマーカスでさえ、焚き火の前では言葉を選んでいるように見えた。火のはぜる音が、これから始まる会話の前触れのように耳に届く。
「……発見物を、どう扱うか。」
最初に口を開いたのは、アリヤ・ハサン博士だった。彼女は焚き火の向こうで真剣な眼差しを向けながら言葉を継いだ。
「化石や骨は科学にとって計り知れない財産です。しかし同時に、文化と信仰を無視して持ち去ることは、侵略行為に等しい。特にこの洞窟が“聖域”と呼ばれている以上、慎重さが必要です。」
ラファエルが眉をひそめた。
「けれど、時間は待ってくれない。もし結晶痕跡を持つ骨が出てきたら、それは人類史の根幹を揺るがす発見だ。湿潤な環境に長く放置すれば、データは失われる。」
「わかる。」佐久間遼が短く応じた。焚き火の炎に照らされた横顔は硬い。
「俺たちダイバーにとって、最優先は“生還”だ。だが、発見現場が危険地帯であれば、骨や遺物の処置は迅速に判断しなければならない。持ち帰るか、その場で記録だけ残すか……。迷っている余裕はない。」
スーザン・チャンが静かに首を振った。
「でも、現地の文化を軽視すれば、我々は研究者ではなく略奪者になってしまうわ。地質的に貴重な洞窟を損なえば、二度と修復できない。科学的欲求と倫理の間で、線を引かなければならない。」
焚き火がパチパチと音を立て、沈黙が一同を包んだ。
その時、輪の外から遠慮がちに声がした。
「……先祖の骨を持ち出すことは、呪いを招く。」
声の主は、キャンプの雑務を手伝っている青年、アミルだった。村長の甥で、今回ポーターとして同行している。20歳そこそこの彼は、火に照らされた瞳を真剣に輝かせていた。
「小さい頃から聞かされてきました。洞窟は“戻らぬ者の穴”で、死者の魂が眠る場所だと。もし骨を持ち出せば、村に災いが降る。……それが、僕らの伝承です。」
その言葉に、隊員たちは息を呑んだ。科学の言葉では片付けられない重さが、そこにはあった。
アリヤ博士は静かにうなずいた。
「アミル、あなたの言葉は尊重します。私たちは科学者である前に、この土地の訪問者ですから。」
しかし、ラファエルが反論するように身を乗り出した。
「だが、世界中で同じような葛藤はあったはずだ。ペルーのナスカでも、南アフリカの洞窟でも。科学が人類全体に資するからこそ、文化的タブーを超えて研究が行われてきた。」
マーカスが低く遮った。
「だがその結果、どれほどの対立と不信を生んだ? 我々が今ここで結論を急げば、同じ轍を踏む。」
井上美佳がカメラを下ろし、珍しく自分の意見を口にした。
「記録者の立場から言わせてもらうと……“持ち出すこと”よりも、“どう残すか”が重要だと思います。データは複製できる。写真も映像も三重に保存できる。だが、骨を一度動かせば、元の姿は永遠に失われる。」
焚き火の火が強く燃え上がり、誰もがその光を見つめた。
長い沈黙のあと、アリヤ博士が結論を示した。
「では、こうしましょう。発見物は必ず現地に報告し、移送は国際協議後に行う。私たちが勝手に持ち出すことはしない。その代わり、全てを詳細に記録し、研究の種を未来に残す。」
佐久間がゆっくりとうなずいた。
「危険地帯での迅速判断は俺に任せてもらう。ただし“持ち帰らない”という原則は尊重する。」
ラファエルは肩を落としたが、やがて苦笑した。
「科学者にとっては歯がゆい決断だが……理解した。」
マーカスは短く付け加えた。
「倫理を軽んじれば、調査自体が続行不可能になる。それが現実だ。」
焚き火を囲む輪に、静かな合意が広がった。
アミルは深く頭を下げ、安堵の表情を浮かべた。
夜の森の奥から、再び猿の遠吠えが響いた。それはまるで、洞窟に眠る“誰か”が彼らの議論を聞き届けたかのように、低く長く続いた。




