第51章 環境調査 ― 地質と水文
朝のジャングルは湿気に包まれていた。夜の雨で濡れた葉からは水滴が絶え間なく落ち、洞窟入口に近い河原は泥濘と化していた。ベースキャンプのテント村からわずか二百メートル先に、「ブルー・チャンバー」の黒い裂け目が口を開けている。隊員たちは、今日一日を環境調査に費やす予定だった。
「まずは地層の確認から。」
スーザン・チャンが声を上げ、ノートPCと測定器材を担いで岩壁に近づいた。彼女はヘルメットにライトを装着し、石灰岩の表面を叩きながら音を確かめる。
「典型的な熱帯カルスト……ただし、層の厚みが不均一ね。」
指先で岩の縞模様をなぞる。白と灰色の境界が波のようにうねっていた。
「更新世後期、海水準の変動に伴って沈水と乾燥が繰り返された痕跡がある。つまり、洞窟は数万年単位で“開いたり閉じたり”してきた。」
ラファエルが隣で覗き込み、興味深そうに声を上げる。
「その周期に合わせて、魚や甲殻類の種が隔離され、進化を続けた可能性がある……ということだな?」
「理屈の上ではね。」
スーザンは手を止め、笑みを見せたが、その表情には緊張も混じっていた。
「ただし問題は、“今”の安定性よ。この洞窟は雨期に水没しやすいはず。」
午後、アリヤ博士と通訳を交えて、村の年長者への聞き取りが行われた。
藁葺き屋根の下、老人が皺だらけの手で竹筒の水差しを差し出しながら語る。
「大雨の後は、三日も経たぬうちに水位が上がる。洞窟の入口から濁った水が吹き出し、川が逆に飲み込まれるようになる。昔、若者が入って命を落とした。戻ってきたのは冷たい水だけだった。」
アリヤは真剣に頷き、記録帳に書き込む。
「雨期には内部の水位が二メートル以上変動する……。これは長期滞在型の遠征にとって致命的なリスクね。」
佐久間が横から口を挟む。
「つまり、滞在は乾期限定。もし雨期に入れば即座に撤収するしかない。」
マーカスが腕を組んでうなずいた。
「撤退条件の明文化に加える。」
ベースキャンプに戻ると、測量班が準備を始めた。
井上美佳がカメラを構える前で、三脚に据えられたレーザースキャナーが唸りを上げる。緑色の光が洞窟入口の壁面を舐め、数分で立体的な点群データがPCに浮かび上がった。
「見ろ、この輪郭。岩盤に縦方向の割れ目が走っている。」
スーザンが画面を指差す。
「ここが将来の崩落リスク。潜水時に落石が起きれば帰還は不可能になる。」
「ドローン、行きます。」
ラファエルが小型水中ドローンを取り出し、洞窟の入口にそっと沈めた。青いライトが闇に吸い込まれ、モニターに暗い水路が映し出される。ドローンはまだエントリ付近を漂うだけだったが、その水流は予想以上に複雑だった。
「下層から逆流があるな。」佐久間がモニターを見ながら呟く。
「ガスデポの配置を考え直した方がいい。流れに逆らえば消費量が跳ね上がる。」
最後に、洞窟内の気流とガス濃度を測定する。
マーカスがポータブルセンサーを持ち込み、入口付近で数値を確認した。
「酸素濃度 20.5%、問題なし。だが二酸化炭素がやや高い。0.2%。」
「0.2なら許容範囲じゃない?」ラファエルが軽く言った。
マーカスは首を横に振った。
「深部で溜まれば数%に達する。CO₂ 3%で頭痛、5%で意識喪失だ。これは単なる数字ではなく“死亡予告”だと理解しろ。」
スーザンが付け加える。
「石灰岩洞窟は呼吸が滞留しやすい。長期キャンプでは換気をどうするかが課題になる。」
美佳はセンサーを覗き込み、カメラで数値を撮影した。
「未来の誰かが、このデータをもとに“なぜ我々が慎重だったか”を理解するでしょうね。」
夕刻、調査結果をまとめたホワイトボードには三つの柱が書き込まれた。
1.地層の不均一性と崩落リスク
2.雨期に伴う急激な水位上昇
3.洞窟内の二酸化炭素濃度上昇
アリヤ博士は静かに頷き、全員を見渡した。
「この調査でわかったのは、“洞窟が我々を拒んでいる”という事実です。だが拒絶が強いほど、その奥に眠るものは大きい。だからこそ、慎重さと勇気を併せ持たなければならない。」
誰も言葉を返さなかった。
夜のジャングルには、再び虫のざわめきが満ち始めていた。




