第50章 ガスとリブリーザーの調整
夜明けとともに、河原のベースキャンプに低い唸り声が響き始めた。
ガスコンプレッサーの稼働音だった。湿った空気を震わせながら、金属の匂いとわずかなオゾン臭が漂う。マーカス・ケルナーは、手元の計器を凝視しながら、圧力ゲージと流量計を交互に確認した。
「酸素 21%、ヘリウム 35%、窒素 44%……深度 70 メートル、pO₂ は 1.3。これでいく。」
低く抑えた声で計算結果を読み上げる。
佐久間遼が横でメモを取り、一本一本のシリンダーにラベルを貼っていった。白のマジックで大きく「Tx21/35」、その横に残圧と充填日時を記す。たとえ一本のガスを取り違えても命取りになる。
「遼、確認は二人一組で。」
マーカスが目を光らせる。
「一本ずつ、読み上げ、記録、相互署名。これを怠れば即座に撤収だ。」
「わかってる。」
佐久間は短く答え、次のシリンダーを持ち上げた。肩に食い込む重さが、これから挑む深度と危険の現実を示していた。
その隣では、リブリーザー(CCR)の調整作業が進んでいた。
黒いケースを開けると、複雑に絡み合ったホースと回路が現れる。佐久間は手袋を外し、ソフノライムの缶を取り出した。白い粒状の吸収剤を慎重に充填し、均一になるように振ってから再び閉じる。
「ソフノライム残量、6時間稼働を保証。」
彼は口に出して確認し、マーカスにチェックリストを差し出した。
「キャリブレーション開始。」
マーカスが酸素センサーのカバーを外す。ポータブル酸素供給装置を接続し、センサーが正しく 100% O₂ を示すかを確認する。だが、二番目のセンサーの針がわずかに揺れた。
「……0.96?」
マーカスが眉をひそめる。
「誤差範囲を超えてるな。」佐久間が顔を寄せた。
「輸送中にセンサーがやられたか。」
二人の手が止まり、場の空気が一瞬張り詰めた。
このままでは潜水中に酸素分圧の測定が狂い、致命的なハイパーオキシアかハイポキシアを引き起こす危険がある。
「予備センサーを出せ。」
マーカスは静かに命じ、アルミケースを開いた。銀色のパックに包まれた新品のセンサーが並んでいた。
「交換、20分で終える。」佐久間が言った。
「いや、30分だ。」マーカスは即座に訂正する。
「キャリブレーション後に必ず二重確認する。性急は禁物だ。」
作業を見守っていたアリヤ・ハサン博士が、不安げに尋ねた。
「センサーの損傷……大丈夫なのでしょうか?」
マーカスは顔を上げ、眼鏡の奥の視線を鋭くした。
「大丈夫かどうかではない。大丈夫にするんだ。」
佐久間が苦笑した。
「こいつの口癖さ。」
だがその表情に笑いはなかった。
センサー交換が完了すると、マーカスは全員を呼び集めた。
「聞いておけ。これは単なる不具合ではない。1994年、メキシコの Huautla、San Agustín 遠征を知っているか?」
ラファエルが頷いた。
「新型リブリーザーを試験投入して、ダイバーが死亡した……あの事故か。」
「そうだ。」
マーカスの声は硬かった。
「Ian Rolland。水没区間でセンサー異常が発生し、酸素供給が暴走した。彼は浮上できず、遺体は6日後に回収された。あのときチームが学んだのは一つ——機材実験を本番に持ち込むな。新しい装備は訓練で十分に試し、本番では“既に信頼できるもの”だけを使う。それが鉄則だ。」
沈黙が広がった。
焚き火の煙が風に揺れ、湿った夜気が肌にまとわりつく。
「我々の遠征も同じだ。」マーカスは続けた。
「ここは都市のプールでもなければ、リゾートの海でもない。酸素が狂えば死ぬ。ガスを取り違えれば死ぬ。規律を破れば死ぬ。それだけだ。」
佐久間が頷いた。
「だから、俺たちは遊びじゃなく、責任を背負って潜る。」
井上美佳はカメラを構え、赤いランタンの光に照らされた二人の姿を収めた。
レンズ越しに見えるのは、科学者ではなく、命を削って暗黒に挑む探検者の顔だった。
夜が更けても、コンプレッサーの低い唸りは止まなかった。
数十本のシリンダーに正確な混合ガスが満ち、リブリーザーは一つずつキャリブレーションを終え、チェックリストに署名が並んでいく。
明日には、ブルー・チャンバーの闇へと最初の一歩を踏み出す。
その命綱が、ここで整えられつつあった。




