第49章 ベースキャンプ設営
村での交渉を終えた翌朝、調査隊はトラック数台に機材を積み込み、洞窟入口近くの河原へと向かった。道はぬかるみ、木の根が隆起して車輪を取る。現地青年たちが先導し、時にロープを張って車を引き上げる。数時間の格闘の末、視界が開けた先に、岩肌に囲まれた広い河原が現れた。そこが「ブルー・チャンバー」のエントリ地点だった。
「ここだ。」
佐久間遼が短くつぶやく。岩の割れ目から湧き出す水が川へと注ぎ込み、その水面の奥に洞窟の黒い口が口を開けていた。昼でも陽が届かず、冷気がかすかに漂う。村人が「底なしの井戸」と呼ぶ所以が、一目で理解できた。
隊員たちは手際よく作業に取りかかる。まず河原の平坦な場所を選び、テントを並べた。国際規格のドームテントに加え、大型の耐水テントを「指令室」として設置する。そこには折り畳み式の机と衛星通信アンテナ、ノートPC群が並び、調査データの送信拠点となる予定だった。
「アンテナ、仰角をもう五度上げろ。衛星捕捉が不安定だ。」
マーカス・ケルナーが鋭い声を飛ばす。ドイツ仕込みの几帳面さはここでも発揮され、アンテナの角度、発電機の設置距離、燃料缶の保管位置にまで指示が飛ぶ。
発電機は河原の下手に二基設置された。夜間照明と冷却装置、ガス充填ステーションを動かす電源である。燃料タンクには赤いマーキングが施され、誤使用を防ぐためチェックリストが掲げられた。
テント村の一角には医療用の白いテントが立ち上げられた。医師は同行していないが、マーカスの指導で応急処置体制が整えられる。AED、高圧酸素治療バッグ(ポータブルハイパーバリックバッグ)、輸液セットが机に並べられ、壁には「緊急手順フロー」が貼られた。
「減圧症を起こしたら、まずこのバッグに入れろ。救急搬送は最短でも十時間かかる。ここでの初動が生死を分ける。」
マーカスの言葉に、隊員たちは誰も笑わなかった。
河原の一角では、シリンダーが整然と並べられ、即席の「ガス充填ステーション」が形を成していた。コンプレッサーの重低音が響き、ホースから吐き出される空気の匂いが湿った熱気に混じる。酸素、ヘリウム、窒素。それぞれの比率は細かく計算され、ラベルが貼られる。混合比率のミスは即ち死につながる。
佐久間は指でシリンダーの表面をなぞり、残圧計を確かめながら独り言のように呟いた。
「これが俺たちの命綱だ。一本でも間違えれば帰れない。」
一方、井上美佳はカメラを肩に、拠点の全景を丹念に記録していた。
「これが人類史を掘り起こす“前線基地”です。」
独り言を吹き込みながら、ファインダー越しに仲間の姿を追う。汗を拭いながらシリンダーを運ぶ佐久間、真剣に地図へ赤鉛筆を走らせるスーザン・チャン、笑顔を見せつつも眼差しに緊張を宿すラファエル・オルティス。彼女の映像は、学術記録であると同時に、ひとつの物語を刻んでいた。
夕刻。森の影が河原を覆い、空気がさらに湿り気を増す。テント村の周囲では、ポーターの青年たちが焚き火を起こし、鍋に米と野菜を投げ込んでいた。漂う香りに隊員たちの顔が少し和らぐ。
だが、夜の到来は容赦なく彼らを包んだ。
森の奥から猿の鳴き声がこだまし、無数の虫の羽音が耳を覆う。川面には蛍のような反射光が瞬き、熱帯の夜気は肌にまとわりつくように重い。汗は乾かず、テント内は蒸し風呂のようだった。
「……これが数週間続くのか。」
ラファエルが蚊帳の中で苦笑した。
「まだ序の口よ。」
スーザンが冷静に返す。彼女はヘッドランプを外し、地図を丸めて枕代わりにしていた。
アリヤ博士は一人、ノートに日誌を記していた。
「ベースキャンプ設営完了。村人との協定に基づき、初潜入は三日後とする。全員の健康状態、機材点検を二度確認すること。」
その筆致は整然としていたが、彼女の胸の奥では、不安と高揚がせめぎ合っていた。
その夜、ジャングルの闇は深く、洞窟の入口は黒い影となって彼らを見下ろしていた。まるで、近づく者を試すかのように。




