第47章 基地 ― 州都から洞窟入口へ
クアラルンプールを発った二台のバンは、北へ向けて高速道路を走り続けた。
車窓の外には次第に高層ビル群が消え、代わりに赤土を刻むパーム農園が延々と続く。午後にはスコールが降り、フロントガラスに叩きつける水滴が一瞬で視界を奪った。ワイパーが必死に弧を描く中、運転手が肩をすくめる。
「これが乾季の雨です。十五分で止みます。」
言葉どおり、やがて雲は切れ、蒸気を上げる大地が現れた。
州都の拠点
夕刻、彼らが到着したのは州都の外れにある大学の研究施設だった。
白壁の平屋に、広い倉庫が併設されている。ここが ベース・キャンプ0 ——洞窟入口に向かう前の最終準備拠点である。
マーカス・ケルナーは到着するとすぐ、倉庫のシャッターを開けた。
中には事前に輸送されていた木箱とスチールケースが積み上がっている。木箱には「O₂」「He」と赤字で書かれ、内部には新品のガスシリンダーが整然と並んでいた。
「よし、輸送中の衝撃痕はなし。温度ログも範囲内。」
彼は温度記録計を外し、ラップトップに読み込ませる。画面には緑色の線が安定して走っていた。
佐久間遼はその横で、ラインリールとカラビナを一つずつ取り出しては手触りを確かめている。
「この湿度だとナイロンが伸びるな。補助リールは撚りを強めに巻き直す。」
彼の声は落ち着いていたが、指先の動きは神経質なほど正確だ。日本での訓練を終えていても、現地環境は常に想定を超える。そのことを、彼は痛いほど理解していた。
映像と地層の確認
一方、井上美佳は会議室に機材を並べ、カメラの防湿ケースを開けた。
「レンズ曇り止めは毎晩交換。湿気で結露すると記録が全滅します。」
彼女は冷静にチームへ指示を出す。過去、東日本大震災の避難所で、湿気によってデータカードが破損した経験があった。記録の脆さを知る者として、彼女は徹底して臆病だった。
スーザン・チャンは施設のネットワークを利用して、石灰岩層の年代データを呼び出していた。
「洞窟周辺の石灰岩は更新世後期、十万年前前後の沈積。水没は氷期末期の海面上昇によるもの。」
彼女は地図を指でなぞりながら言う。
「つまり、洞窟内に残っている痕跡は“人類が到達したか否か”の境界線を直接示す可能性がある。」
ラファエル・オルティスが興奮気味に割り込む。
「その環境で孤立進化した魚や甲殻類もいるはずだ。もし結晶沈着が生物体に見つかれば、進化に外部入力が作用した直接証拠になる!」
彼の熱に対して、スーザンは冷静な声を返した。
「出なくても意味があるのよ。科学は“空白”もまた証拠にする。」
二人のやり取りをアリヤ博士は黙って聞き、やがて微笑した。
「だからこそ両方が必要なのです。生物も地層も、どちらか一方では歴史は語れない。」
夜のブリーフィング
夕食後、倉庫に簡易のホワイトボードが立てられた。マーカスが赤いマーカーで大きく数字を記す。
「明日から三段階で動く。
1.機材の最終点検と再封印。
2.洞窟入口までの輸送ルート確認。
3.現地村落との合意形成。」
「合意形成?」とラファエルが首をかしげる。
アリヤ博士が答える。
「洞窟は村人にとって“底なしの井戸”。霊的な意味を持ちます。私たちは外部から来た研究者。立ち入りには説明と承認が不可欠です。」
彼女の声には、地元文化への敬意が滲んでいた。
佐久間は短く息を吐いた。
「科学も宗教も、洞窟の暗闇では同じだ。どちらも“未知”を恐れている。」
その言葉に、井上は小さくうなずき、メモ帳に書き込んだ。
《未知の前で、人は等しく臆病になる。》
夜が更け、倉庫の照明が落とされた。
だが隊員たちの心は冴えていた。
準備は進みつつある。次は、熱帯の密林を抜けて ブルー・チャンバーの入口 に至る――その一歩手前の段階だった。




