第45章 公式出発式
冬の東京、本郷キャンパスの大講堂は、いつになくざわめいていた。会場の前方には国際報道陣のカメラが並び、フラッシュが白い光を放つ。舞台上にはスクリーンが設置され、これまでの調査成果をまとめた映像が流れていた。
アフリカ大地溝帯で見つかった二足歩行化石。
南アフリカ・ワンダーワーク洞窟の燃焼痕。
南極氷床下湖から採取されたリボン状の多細胞群集。
そして最後に映し出されたのは、暗黒の口を開けるブルー・チャンバーの入口だった。観客席の空気がひときわ重くなる。
壇上に立ったのは、マレーシア国立大学のアリヤ・ハサン博士。黒いスーツ姿に身を包み、マイクを握るその姿は気迫に満ちていた。
「我々の使命は未知の化石を探すことではありません。最大の目的は“六角結晶”の有無を確かめることです。結晶があれば、進化と外部入力の議論は新たな段階へ進む。なければ、その“不在”こそが意味を持つのです。」
会場の前列で、佐久間遼は静かにうなずいた。彼にとって学術的意義よりも、まず「戻れるのか」という現実の問いが常に頭を離れない。それでも博士の言葉には確かに重みがあった。
記者が手を挙げた。
「博士、危険すぎるのでは? 調査員の命の保証は?」
すぐにマーカス・ケルナーがマイクを握った。
「安全計画は最高水準です。複数のガスデポ、緊急用ライン、バディ確認。リスクはゼロにならないが、最小化する。それが私の責任です。」
彼の冷たい口調に、会場のざわめきが一瞬収まった。
別の記者が佐久間に問いかけた。
「あなたは命を懸ける覚悟がありますか?」
佐久間はわずかに目を細め、短く答えた。
「戻れぬ可能性を理解した上で挑む。それが俺の役割だ。」
後列で聞いていた井上美佳は、膝の上に置いたカメラを撫でていた。彼女にとって、この遠征は記録者としての再挑戦だった。震災現場で「悲劇を撮る者」と批判された過去。それを乗り越えるには、今度こそ「未来に残す映像」を撮らねばならない。
舞台袖では、ラファエル・オルティスが落ち着かない様子でノートをめくっていた。彼の関心は結晶と同じくらい「未知の生物」にある。報道陣の目には映らないが、彼は心の中でこう繰り返していた。
「盲目魚か甲殻類か……もし進化の鍵が生きた姿で見つかれば、俺の研究は新しい時代を開く。」
壇上に戻ったアリヤ博士は、会場全体を見渡した。
「この探査は単なる学術事業ではありません。国際的な連携、文化と科学の交差、そして未来への責任です。私たちはリスクを承知で挑みます。そのリスクこそが人類史を照らす灯火となるのです。」
スクリーンに隊員たちの顔が次々と映し出される。
佐久間遼――日本人フルケイブダイバー。
マーカス・ケルナー――ドイツ出身の安全管理者。
ラファエル・オルティス――スペインの洞窟生物学者。
井上美佳――日本の水中カメラマン。
スーザン・チャン――シンガポールの地質学者。
そしてチームリーダー、アリヤ・ハサン博士。
名前が呼ばれるたびに、報道陣のフラッシュが走る。
観客席の片隅でスーザンは、記者たちの熱気に少し居心地悪そうにしていた。彼女は華やかな場よりもデータ解析室を好む。だが心の中では、すでにブルー・チャンバーの地層を思い描いていた。
「更新世の沈水がいつ起きたのか……そこが分かれば、人類史の空白を埋める鍵になる。」
一方、マーカスは壇上に立つ自分の姿が映し出されるのを見て、無表情を崩さなかった。彼にとってこれは単なる発表ではない。過去に「救えなかった仲間」の記憶が蘇り、その背に重い影を落としていた。
「今回は誰も死なせない。」
その決意を胸に刻みながら、硬く拳を握った。
会場の最後列で立っていた若い研究者たちは、スクリーンに映る隊員たちを食い入るように見ていた。自分たちが追いかける未来像が、まさに目の前に立っているかのようだった。
やがてアリヤ博士は、最後の言葉を放った。
「人類の歩みを確かめに、水の底へ行きましょう。」
拍手とフラッシュが一斉に響き、大講堂の空気が熱を帯びた。
その瞬間、マレーシア水中洞窟調査隊は正式に発足した。
熱帯の奥、誰も足を踏み入れたことのない暗黒の水域が彼らを待っている。
その闇が進化史の断片を照らすのか、それとも新たな謎を生むのかは――まだ誰にも分からなかった。




