第39章 アドバンスド+ナイトロックス ― 伊豆沈水洞窟
冬の海は澄んでいた。
伊豆半島の入り江に面した小さな漁村。波は穏やかだが、海面の下には冷たい潮が潜んでいる。防波堤の上で器材を並べる調査隊の姿は、漁師たちの目にも異様に映っただろう。巨大なタンク、重々しいCCRユニット、予備のシリンダーが幾重にも並び、まるで軍の補給所のようだった。
佐久間遼が手際よく器材を点検しながら声をかけた。
「今日からは本番に近い。ナイトロックスを使い、深度30メートル級での滞在を延ばす。ガスの特性を理解していないと危険だ。酸素分圧の限界を頭に叩き込んでおけ。」
ナイトロックス――酸素濃度を通常より高めた混合ガス。減圧ストレスを軽減できる一方で、酸素中毒という新たなリスクも伴う。
マーカス・ケルナーは酸素アナライザーを手に取り、一人ひとりのシリンダーを確認していった。
「FO₂は32%、MOD(最大運用深度)は33メートル。これを越えたら即撤退だ。理解できない者は潜る資格はない。」
彼の声は冷徹だが、誰も反論できなかった。
井上美佳はタンクを抱えながら、ふと吐息をついた。
「報道の現場も緊張するけど、数字で命が決まる世界はもっと怖いですね。」
佐久間は笑って肩を叩いた。
「数字を守れば怖れる必要はない。忘れたときに死ぬだけだ。」
彼の口調は冗談めいていたが、目だけは真剣だった。
海へ入ると、水温は一気に下がった。ドライスーツの中に冷たい潮が染み込み、体は小刻みに震える。視界は透明度20メートル以上。冬の伊豆は、海のすべてが剥き出しになる季節だった。
最初の課題は中性浮力の徹底。洞窟で泥を巻き上げれば即、視界ゼロになる。佐久間が示したホバリング姿勢を全員で真似する。両腕を広げ、フィンを静かに動かす。わずかな呼吸の変化で体は上下に揺れ、安定を失う。
スーザン・チャンが苦戦していた。理論派の彼女は計算に強いが、体の感覚でバランスを取るのが難しい。
「……呼吸を“数値化”できればいいのに。」
彼女が思わずつぶやくと、ラファエル・オルティスが隣で笑った。
「科学者はすぐに数式にしたがる。でも海は数式じゃ動かない。潮も魚も、全部がカオスさ。」
軽口にスーザンはむっとしたが、次の瞬間、彼女の姿勢は少し安定した。無意識にリズムを掴んだのだろう。
午後のセッションは沈水洞窟の入り口に移動した。
伊豆の海底には、古い溶岩流が作り出したトンネル状の洞窟がある。入口は水深18メートル、奥に進むと真っ暗闇。ここで隊員たちは“イントロケイブ”に近い実習を行うのだった。
マーカスがラインリールを構え、入り口に固定する。
「ここから先は一本の線が命綱だ。誰も離れるな。」
ライトが岩肌を照らす。壁には古い火山岩の亀裂が走り、所々に小魚が潜んでいた。
井上はカメラを回しながら、心臓の鼓動を感じていた。レンズの先に映る仲間のシルエットは、美しくも脆い存在に見える。
「もしこれがブルー・チャンバーだったら……」
彼女の胸に浮かんだのは、暗黒の洞窟で結晶に覆われた骨を撮影する未来の映像だった。
奥へ進むと、視界は徐々に暗くなり、ライトの光だけが頼りとなる。ラファエルがふと立ち止まり、岩肌を指さした。
「見ろ、カイアシ類だ。暗闇でも微生物を餌にして生きている。」
彼の声には抑えきれない興奮が滲んでいた。科学者としての血が騒ぐのだろう。だがマーカスが即座に制止した。
「サンプリングは今日は不要だ。任務はあくまで訓練だ。」
「分かってるさ。でも、この暗闇で生き延びた命を見逃せないんだ。」
ラファエルの目は少年のように輝いていた。
帰還時、佐久間が最後尾から全員を見守る。洞窟の闇は深く、わずかな油断が命を奪う。彼は心の中で繰り返していた。
――必ず全員を連れて帰る。それが俺の役目だ。
海面に戻ると、冬の夕日が赤く水平線に沈みつつあった。冷たい風に震えながら、隊員たちは次々に器材を下ろす。
マーカスはログブックに記録をつけながら言った。
「全員、最大深度28.6メートル、平均酸素分圧は1.2。安全域内だ。」
スーザンは疲労で息を切らしながらも、笑みを浮かべた。
「理論じゃなく、体で理解するって……こういうことなのね。」
アリヤ博士が頷き、全員を見渡した。
「今日の成果は数字以上のものです。私たちは海の暗闇で互いを信じることを学んだ。これがなければ、ブルー・チャンバーには近づけない。」
夕暮れの港に、六人の影が長く伸びていた。訓練の重さと達成感が、それぞれの胸に静かに刻まれていた。




