第36章 スーザン・チャン ― 岩の記憶を読む者
スーザン・チャンは香港に生まれた。幼少期の記憶の多くは、街の喧騒ではなく、父に連れられて歩いた山道にあった。父はアマチュア地質愛好家で、休日ごとに娘を新界の丘へ連れ出し、露頭に見える縞模様や鉱脈を指差しては語った。
「見てごらん、ここにある線は百万年前の地震の跡だ。」
まだ小学生だったスーザンにとって、その言葉は魔法の呪文のようだった。灰色の岩が突然、悠久の時間を宿す証拠に変わる瞬間だった。
だが、彼女の学問的好奇心を決定づけたのは、1999年の台湾集集大地震だった。親戚の家が倒壊し、現地に駆け付けた彼女は、瓦礫の下から露出した地層の断面を見た。褶曲し、亀裂を走らせた赤土の中に、人々の暮らしが一瞬で飲み込まれていた。
「岩は記録している。だが人間はその声を聞かない。」
その思いが、彼女を地質学に駆り立てた。
香港大学で地球科学を学び、アメリカのMITに留学。専門は石灰岩カルストの形成過程と年代測定だった。洞窟の鍾乳石に含まれる酸素同位体比を分析し、過去数十万年の気候変動を再現する研究に取り組んだ。研究室では顕微鏡を覗き、クリーンルームで試料を扱い、時に狭い洞穴に体を滑り込ませる。
「人類の歴史は数千年。でも岩の記録は百万年単位。」
彼女はいつもそう言って、時間感覚を人とは違うスケールで捉えていた。
学会では冷静で、常に証拠を重視した。ある国際会議で、火の使用痕跡について熱弁をふるう考古学者に対し、彼女は静かに言った。
「その燃焼痕が自然火災ではないと、どのように証明できますか。」
議論は白熱したが、彼女の冷徹な質問は会場を沈黙させた。彼女は敵を作ることもあったが、「揺るがぬ証拠を追う人」として一目置かれた。
ブルー・チャンバー調査への参加を決めたのも、その姿勢からだった。アリヤ博士の説明に「結晶が進化に影響を与えた可能性」と聞いたとき、彼女は懐疑的だった。
「証拠を見せてください。もし本当に六角結晶が骨や堆積物に刻まれているなら、私は否定しません。」
彼女にとって重要なのは「信じるか否か」ではなく、「確かめられるか否か」だった。
準備段階でもその姿勢は変わらなかった。洞窟前哨基地で彼女は岩を割り、堆積物を採取し、年代測定の計画を緻密に立てた。
「更新世後期、沈水はおそらく五万年前以降。もし化石があるとしても、それ以上古いものは地層的に残らない。」
冷静な分析は、熱に浮かされがちなチームを現実に引き戻す役割を果たした。
発足式の壇上で、自分の番が回ってきたとき、彼女はこう語った。
「結晶が存在するかどうか、それが科学の問いです。あるなら進化論を拡張する必要がある。なければ“存在しない”という事実自体が価値を持ちます。」
その冷たいほどの理知的な声は、聴衆に「この調査は夢想ではなく科学だ」と印象づけた。
スーザンにとってブルー・チャンバーは、未知の発見の場であると同時に、「証拠の力」を証明する舞台でもあった。彼女は信仰やロマンに寄り添う気はない。岩に刻まれた記憶を読み取り、それを人類史に組み込む――それだけが彼女の使命だった。
だが夜、テントの中で顕微鏡を覗くとき、ふと幼い頃の父の声が蘇る。
「岩は百万年の物語を語っている。」
その言葉を胸に、彼女は静かに息を整える。冷徹さの奥にあるのは、岩石への純粋な愛情だった。




