第32章 佐久間遼 ― 水に生きる者
佐久間遼は、海を離れては生きられない男だった。
東京湾の下町に生まれ、幼い頃から漁港で潮の匂いとともに育った。父は小さな漁船を操る漁師で、朝まだ暗いうちから沖に出ては、夕方には疲れた顔で帰ってくる。その背中を見ながら、少年の遼は「海は命を奪いもするが、与えもする」ことを知った。
高校を卒業すると同時に、彼は迷わず海上自衛隊に志願した。入隊後、潜水教育隊への選抜を受けたのは自然な流れだった。重い器材を背負い、濁流のような暗い海に潜り込む。体力だけではなく、恐怖を押し殺す精神力が問われる過酷な訓練だったが、遼には苦ではなかった。むしろ暗闇に沈む瞬間にこそ、彼は自分が生きていることを感じた。
だが、転機は紀伊半島沖の任務で訪れた。
水深二十メートルに開いた細い洞窟で、同僚と二人で潜っていた。突然の濁流で視界が失われ、仲間はラインを見失って戻れなくなった。佐久間は必死に探したが、空気残量は刻一刻と減り、やがて一人だけで帰還するしかなかった。
その夜、岸壁で彼は何時間も海を見つめていた。仲間の妻子の顔が浮かぶ。なぜ自分だけが生き残ったのか。その問いは今も答えを持たない。
その事件以来、佐久間は「決して見落とさない」ことを誓った。器材チェックは誰よりも厳密に行い、潜水計画は二重三重に組み、万一のトラブルを想定して何度も頭の中でシミュレーションする。仲間の命を二度と失わないために。
退役後、彼は民間のサルベージ会社に所属し、沈没船の調査や災害現場での潜水作業に従事した。だがそこでも「闇」はつきまとった。東日本大震災で沈んだ沿岸集落の捜索に加わり、瓦礫の中から無数の遺体を引き上げたのだ。海は人を抱き、そして奪う。その事実を突きつけられ、彼は夜ごと酒に逃げた。
そんな彼を再び科学の場に引き戻したのが、大学時代の友人からの連絡だった。
「マレーシアで水没洞窟の調査がある。君の経験が必要だ。」
それがアリヤ博士のチームだった。
佐久間は最初、断るつもりだった。だが資料に載せられたブルー・チャンバーの写真を見た瞬間、体が震えた。暗い水の奥に続く未知の通路。その闇は、彼が追い続けてきたものと同じだった。
「俺はまだ答えを探している。」
そう呟いて、参加を決意した。
発足式の壇上で質問を受けたとき、彼の言葉は短かった。
「科学の発見は人類共通の財産だ。だが文化と信仰を無視しない。」
それは彼自身の矛盾を映していた。海は命を与え、奪い、そして何も答えを示さない。だがそれでも、向き合わずにはいられない。
佐久間にとってブルー・チャンバーへの潜行は、科学探検であると同時に、過去の亡霊との対峙でもあった。
彼の胸には今も、失った仲間の声が響いている。
「なぜお前だけが戻った?」
その問いに答える日は、まだ遠い。だが水の底には、必ず何かがある。
彼はそう信じて、再び暗黒の世界へ身を投じるのだった




