第31章 発足 ― 公開と出発準備
冬の東京大学・安田講堂は、珍しく報道陣のカメラで埋め尽くされていた。壇上のスクリーンには、ブルー・チャンバーの暗い入口が映し出され、その周囲を取り巻く無数のライトが、これから始まる未知の挑戦を照らし出していた。
アリヤ・ハサン博士が登壇する。
「私たちの使命は、未知の化石を探すことではありません。」
静まり返る講堂に、彼女の声が響いた。
「結晶が存在するかどうか、その一点を確かめることです。存在すれば進化と外部入力の議論は次の段階へ進む。存在しなければ、その“不在”こそが人類史の手がかりになるのです。」
フラッシュが瞬き、記者が次々と質問を投げる。
「博士、危険すぎるのでは? 調査員の命の保証は?」
マーカス・ケルナーが即座にマイクを取る。
「安全計画は最高水準。ガスデポ、ライン二重化、撤退条件の明文化。リスクをゼロにはできないが、最小化するのが私の役目です。」
別の記者が佐久間遼に向けた。
「もし人骨や化石が見つかった場合、宗教的反発は?」
佐久間は短く答える。
「科学の発見は人類共通の財産です。だが文化を無視するつもりはない。地域社会と必ず合意を取ります。」
ラファエル・オルティスは壇上で小声を漏らす。
「……もし骨に結晶が刻まれていたら、宗教も政治も吹き飛ぶだろう。」
その一言が会場をざわつかせ、報道陣はさらに熱を帯びる。
スーザン・チャンは冷静に補足した。
「私たちの調査は、“存在か不在か”を明らかにするコントロール実験です。どちらに転んでも意味があるのです。」
そして井上美佳がカメラを掲げた。
「すべてを記録します。成功も失敗も。未来の研究者のために。」
壇上のスクリーンには、メンバー6名の顔が順に映し出された。
•佐久間遼 ― 洞窟ダイバー
•アリヤ・ハサン博士 ― 考古学者・隊長
•ラファエル・オルティス ― 生物学者
•井上美佳 ― 記録者
•マーカス・ケルナー ― 安全管理者
•スーザン・チャン ― 地質学者
拍手が講堂を満たす中、アリヤ博士は短く言った。
「人類の歩みを確かめに、水の底へ行きましょう。」
その瞬間、マレーシア水中洞窟調査隊は正式に発足した。
式典を終えた夜、チームは別室に集まり、静かな打ち合わせを続けた。
「まずライセンス取得から始める。」とマーカスが告げる。
「国内外で最低限のケイブダイビング資格を全員が更新または取得する。オープンウォーター、アドバンスド、ナイトロックス。それにキャバーン、イントロケイブ……最終的にはフルケイブレベルまで。」
佐久間が頷き、補足する。
「全員が“同じ言語”を話せるようにするためだ。水中では言葉は使えない。訓練で身に染み込ませた規律が、唯一の共通言語になる。」
ラファエルは少し顔をしかめた。
「一か月以上も講習と訓練に費やすのか? その間にチャンスを逃さないか?」
「安全と規律なくして科学はない。」マーカスの声は鋼のように固かった。
「Huautla でも Phantom Springs でも、実験的な機材を本番に持ち込んだことが命取りになった。我々はその轍を踏まない。」
スーザンが資料を閉じる。
「つまり、訓練そのものが調査の第一歩というわけね。」
井上はカメラを回しながら小さく微笑んだ。
「ライセンスを取る光景も全部記録する。これも未来の研究者が学ぶ材料になる。」
アリヤ博士は最後に全員を見渡した。
「発足はゴールではなく、出発点。これから始まる訓練の一日一日が、すでに歴史を刻むのです。」
外は冬の東京の夜。冷たい空気が窓を震わせていたが、部屋の中には新しい熱気が渦巻いていた。
マレーシア水中洞窟調査隊――その物語は、まだ訓練の第一歩を踏み出したばかりだった。




