第30章 規律 ― チームの衝突と調整
東京大学・地球科学研究棟の会議室は、夜になってもまだ灯りが落ちていなかった。ホワイトボードにはガスデポ計画や訓練スケジュールがびっしりと書き込まれ、机の上には資料やラップトップが散乱している。だが、議論は次第に緊迫の度を増していた。
「科学的成果を優先しなければ意味がない。」
ラファエル・オルティスが椅子から身を乗り出し、机を叩くように言った。
「未知の盲目魚や甲殻類を捕獲できるチャンスは一度きりだ。濁りやリスクを理由にためらっていたら、すべてを逃す。」
マーカス・ケルナーが冷徹な視線を返す。
「君は命のリスクを軽視しすぎている。視界ゼロでのサンプリングは事故の典型例だ。デポもラインも無意味になる。科学は“死者の上”には築けない。」
二人の声がぶつかり、会議室の空気が一気に重くなる。
佐久間遼が低く割って入った。
「現場で判断するのは俺たちダイバーだ。サンプル採取は、帰還ルートが保証されている場合に限る。それがラインワークの基本だ。」
直感派である彼だが、命を削ってきた経験から、その声には確固たる重みがあった。
沈黙を破ったのはスーザン・チャンだった。
「ここで必要なのは感情ではなく、ルールよ。」
冷静な口調で、彼女は手元のメモを広げた。
「チームには“科学班”と“ダイブ班”がいる。科学班の希望は尊重するが、ダイブ班の撤退基準が優先される。これを明文化して、誰も破れない規律にするべき。」
井上美佳がカメラを回しながら小さく呟く。
「そのルール自体を映像で残しておけば、未来の研究者は“なぜそう決めたか”を理解できる。記録が規律を守るんです。」
議論はさらに続いた。
・夜間潜水を行うか否か
・通信は光信号か触覚ラインか
・現地での宗教的儀礼にどう対応するか
小さな意見の食い違いが積み重なり、声が荒れる瞬間もあった。だが、そのたびにアリヤ・ハサン博士が調停役として前に出た。
「私たちは国籍も専門も違う。価値観も異なる。でも、共通の目的は一つ。“結晶痕跡が存在するかどうか”を確かめること。」
彼女はゆっくりと全員を見渡し、強く言い切った。
「だからこそ、規律が必要なのです。規律は枷ではなく、私たちをひとつに結ぶ唯一の言語です。」
その言葉に、重苦しかった空気が少しずつ和らいでいく。マーカスは深く息を吐き、ラファエルも肩をすくめて笑った。佐久間は黙って頷き、スーザンは新しいチェックリストを書き加えた。
夜半、会議が終わるころには、壁のホワイトボードに太字で三つの規律が書き込まれていた。
1.撤退条件は絶対に遵守する。
2.科学的希望は尊重するが、安全判断が優先される。
3.すべての決定は記録され、全員で共有する。
アリヤ博士がペンを置き、静かに言った。
「これが、私たちの共通言語です。」
その瞬間、ばらばらだった六人の視線が一点に収束した。国籍も専門も違う彼らを結ぶのは、使命でも情熱でもなく、この規律そのものだった。




