第28章 設計 ― 安全計画と訓練スケジュール
東京大学・地球科学研究棟の会議室に、再び調査隊の面々が集まった。
前日の「呼びかけ」で方向性は固まったが、今日はより具体的な設計を行う日だ。窓の外は冬空が広がり、冷たい光が会議室の机に落ちている。
ホワイトボードの前に立ったのは、ドイツ出身の安全管理者マーカス・ケルナーだった。背筋を伸ばし、眼鏡の奥の視線はまっすぐだ。彼は元・特殊潜水部隊員で、数々の回収任務を経験してきた。だからこそ「帰還できない潜水」を誰よりも嫌い、口癖は常に「安全は交渉できない」である。
マーカスは赤いマーカーを走らせ、三つの条件を書き出した。
•ガス残量が 1/3 に達した時点で無条件撤退
•視界が 1m 未満の状態が3分続いたら撤退
•バディとの接触を10秒以上失った場合は撤退
「これは推奨ではない。絶対条件だ。」
彼のドイツ訛りの英語は、金属のように硬く響き、会議室を一瞬で静めた。
黙って聞いていた佐久間遼が、腕を組みながら口を開く。
彼は日本を代表するケイブダイバーで、メキシコやインドネシアで数々の沈水洞窟に挑んできた。直感派で大胆だが、現場では冷静沈着である。
「撤退条件は妥当だ。ただ、洞窟内は流れが不規則だ。二重ラインを敷設して、交点には必ずタッチノットを残す。視界を失っても触覚で帰還できるようにしなきゃならない。」
マーカスは短く頷き、赤線の横に「二重ライン」と書き加えた。
「訓練スケジュールは三段階に分けるべきよ。」と声を上げたのは、シンガポール出身の地質学者スーザン・チャンだ。普段は冷静な理論派だが、科学的リスク評価では一歩も譲らない。
「第1段階はプールで基礎練習。第2段階は国内の沈水洞窟で模擬ダイブ。そして第3段階として、タイやメキシコで予行演習をする必要がある。石灰岩特有の濁りや流れに慣れてからでないと、ブルー・チャンバーには入れないわ。」
「その通りだが、生物採取の訓練も加えるべきだ。」と口を挟んだのはラファエル・オルティス。フィリピンの洞窟生態学者で、快活でチームの雰囲気を和ませる一方、科学への情熱は誰よりも強い。
「水中でサンプルを採るのは繊細な作業だ。泥を巻き上げれば視界はゼロになる。特殊な吸引装置を使って、濁りを出さずに盲目魚や微生物を捕獲する練習を重ねたい。」
その発言に、マーカスが鋭く睨む。
「安全を損なう生物採取は許さない。」
「だが挑戦なくして科学は進歩しないだろう?」ラファエルは笑いながらも引かない。
緊張が走る。だが小柄な井上美佳が、そっとノートパソコンを開きながら口を挟んだ。
彼女は日本の映像ジャーナリスト出身で、戦地や災害現場を渡り歩いてきた経験を持つ。「記録こそ未来への贈り物」が信条だ。
「私は全行程を撮影する。プール訓練も、洞窟での模擬ダイブも。記録は“証拠”になるし、未来の研究者が私たちの失敗から学べる。だから、衝突も含めて全部残すわ。」
場の空気が少し和らぐ。
最後にアリヤ・ハサン博士が口を開いた。彼女はマレーシア国立大学の考古学者で、ボルネオの洞窟遺跡を数多く発掘してきた。地元文化への誇りと、国際的研究をつなぐ使命感を併せ持つ。
「つまり我々は“実戦投入”の前に段階的な試験を行うのです。機材の故障、通信の断絶、心理的ストレス……あらゆる状況をシミュレーションしなければならない。科学的発見は重要ですが、命あってこそ意味を持つ。」
会議の終わりに、マーカスがもう一度全員を見渡した。
「各自が科学者である前に、まずダイバーであることを忘れないように。」
誰も反論しなかった。
使命感とリスクが複雑に絡み合う中で、調査隊の骨格は少しずつ形を成していった。




