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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン11

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第20章 刻線と記号化 ― 数学の最初の外部化



 真壁教授は、スクリーンに新たなスライドを映し出した。暗い講堂に浮かび上がったのは、古びた骨片の写真だった。細長い動物の骨に、規則的な刻線が何本も刻まれている。


 「これはイシャンゴ骨、そしてルバンボ骨と呼ばれる遺物です。年代は約3万5千年前、旧石器時代後期にさかのぼります。どちらもアフリカから発見されたものです」


 学生たちが前のめりになる。教授は指示棒で刻線の部分を指し示した。


 「ご覧の通り、この骨には刃物で刻まれた直線が並んでいる。しかも無作為ではなく、一定の間隔で区切られている。研究者たちは、これを“数の記録”と解釈しています」


 別のスライドには、刻線のクローズアップが映る。二本、三本、四本と並び、時に五本でまとまりを作る箇所もある。


 「たとえば狩猟で仕留めた獲物の数、あるいは月の満ち欠けを数えた痕跡ではないかと考えられている。月相を数えると29.5日――およそ30日の周期が見えてきます。イシャンゴ骨には、そうした周期性が反映されている可能性があるのです」


 教授は一度チョークを取り、黒板に「言語 → 数詞 → 記号化」と大きく書き出した。


 「ここで重要なのは、人類が言語によって数を扱えるようになっても、記憶には限界があったということです。昨日仕留めた獲物の数、ある月に観察した満月の回数――言葉で覚えていても、時間が経てば忘れてしまう。だからこそ、記録の必要が生じた。そこで用いられたのが、刻線です」


 教授は骨の写真をスクリーンに戻しながら続ける。

 「この刻線は、数の最初の外部記録です。つまり“記憶を外に保存する”という革命的な行為でした」


 学生の一人が手を挙げる。

 「先生、それって文字の始まりなんですか?」


 教授は首を振った。

 「いい質問です。しかし、この段階では文字ではありません。なぜなら、刻線は“数”という限定的な情報しか示さないからです。文字は“音声言語全体”を記録できます。つまり、数詞を含む語彙そのものを符号化できる。けれど刻線はあくまで『五』とか『十』といった数量の印でしかない。したがって、文字ではなく“記号化”です」


 教授は少し間を置き、語気を強めた。

 「ただし、この記号化には大きな意味がある。刻線は、言葉を超えて時間を超える。言語で『五頭の獲物』と言っても、その場にいなければ消えてしまう。だが骨に五本の線を刻めば、その記録は次世代にも残せる。つまり、刻線は“時間を超えた知識の伝達”なのです」


 学生たちの間にざわめきが広がる。教授はスクリーンを切り替え、世界各地の刻線入り遺物の例を示した。フランスの旧石器遺跡、シベリアの骨片、そしてアフリカのイシャンゴ骨。


 「この時期、ヨーロッパからアフリカ、アジアに至るまで、同じような刻線が独立に現れます。人類全体が“数を外部化する”という行為に到達していたのです。これは偶然ではなく、言語で数を扱えるようになった人類の必然的な進化でした」


 前列の男子学生が問う。

 「先生、人類はこのとき、すでに数学を始めていたんですか?」


 教授は穏やかに頷いた。

 「ええ、そう言ってよいでしょう。ただし、数学という言葉が意味する体系化や証明はまだありません。けれど、“抽象的な数を記録し、外部に保存する”という行為は、まさに数学の第一歩です。数を刻んだ瞬間、人類は記憶を超え、時間を超えた存在になった。これこそ数学の誕生なのです」


 講堂の片隅で、瓦礫の補修音が響いた。東京の都市はまだ崩壊の傷跡を抱えている。だがその中で、数万年前に骨に刻まれた線が学生たちの眼前に甦り、未来へと繋がる思考を形作っていた。

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