第12章 《断絶の証言》 ―
その夜、解析棟を出た野間は、冷たい火星の大気の下で空を仰いだ。母船〈YAMATO〉の光が点のように瞬いている。
断絶か継続か。答えは出ない。だがこの問いこそが、人類史そのものを照らす灯火なのだと、彼は直感していた。
背後でドアが開き、藤堂科学主任が外に出てきた。彼はヘルメットを小脇に抱え、火星の赤い地平線をしばらく黙って眺めていたが、やがて野間に向かって言った。
「とても鋭い問いだよ、野間。実はその通りなんだ。進化史の理解を難しくしている大きな要因は――先カンブリア期の化石記録が極めて不完全であることなんだ」
野間は顔を上げる。藤堂は火星の薄い空気を吸い込むようにして、言葉を続けた。
「まず、化石が乏しい理由を挙げよう。
ひとつは体の柔らかさだ。エディアカラ生物群を含む多くの先カンブリア生物は、骨格や殻を持たず、ゼラチン質や薄い組織でできていた。死後すぐに分解され、化石として残る確率は非常に低い。
次に堆積環境の特殊性。当時の堆積岩はその後の地殻変動や変成作用で変質している。圧力と熱で、せっかくの痕跡が消えてしまった。
さらに探索地域の偏りもある。エディアカラ紀の有名な化石群はオーストラリア、ナミビア、カナダ、ロシアなど、ごく限られた場所からしか出ていない。地球にはまだ手つかずの先カンブリア堆積層が無数に眠っているはずだ」
藤堂の声は、火星の夜気に吸い込まれるように低く響いた。
「だが、不完全さの中でもいくつかの突破口はある。
微化石やバイオマーカーだ。シアノバクテリアや原始的真核生物によるストロマトライト、それにステロールなどの分子化石が30億年以上前から確認されている。つまり、生命活動そのものは古くから豊富にあったということだ。
さらに近年では、中国・貴州省の“大坪層”から約16億年前の真核生物化石が報告された。細胞構造を持ち、藻類的な多細胞性を示している。そしてエディアカラ紀、約5.8億年前の堆積層からは、動物的な“這った痕跡化石”まで見つかっている。これは――カンブリア以前にすでに動物的行動を示す存在がいたことを意味するんだ」
野間は目を見開いた。火星の標本と地球の微かな痕跡が、一本の線で結ばれていくような感覚があった。
「学術的な見解は二つに分かれている」
藤堂は指を二本立てて見せた。
「不完全記録説。化石に残りにくいだけで、実際には多様な動物群がすでに出現していた。カンブリア爆発は“突然の登場”ではなく、“保存性の改善による見かけ上の爆発”にすぎないとする立場だ。
そしてもう一方は実際の断絶説。確かにエディアカラ群はごっそり消え、その代わりに硬い殻を持つ動物群が急増した。単なる保存性の問題ではなく、生態系そのものの大変動――捕食関係の成立や海洋化学の急変――が背景にあった可能性が高い、とする立場だ」
藤堂はそこで言葉を切り、野間の目を見た。
「結論を言えば、両方が併存するのが今の学術的コンセンサスだ。化石記録の不完全さが“空白”を生んでいる一方で、実際に大規模な生物交代があったことも否定できない。つまり、継続と断絶は同時に起きていた――それが現実だ」
しばらく沈黙が流れた。
やがて佐伯医官が解析棟から出てきて、二人に加わった。
「結局のところ、“人間の記録”も似たようなものね。都市の繁栄が、ある日突然失われる。それを見てきた野間君には、余計に響くんじゃないかしら」




