第9章 沈黙の層
火星探査基地の解析棟は、いつにも増して緊張に包まれていた。外殻に覆われた小さな建物の内部で、葛城副艦長を中心とする地表チームの面々は、息を詰めるように顕微鏡とディスプレイを覗き込んでいた。空調の低い唸り音だけが、密閉空間の静寂をかすかに震わせている。
長旅を経て〈MIZUHO〉が地表から採取した岩盤コアは、すでに複数の断面が切り出され、樹脂に包埋されて並んでいた。ディッキンソニアやチャルニオディスクを思わせる扁平な印痕は、すでに簡易分析で「先カンブリア型群集に極めて近い」と判定されていた。速報論文が発表された瞬間から地球の科学界は沸騰状態になり、ここ火星の基地は事実上、太陽系最大の注目拠点となっていた。
野間通信士は壁際に置かれた折り畳み椅子に腰を下ろし、端末を膝に載せたまま、しばし言葉を失っていた。スクリーンに拡大投影されるのは、薄片の内部に刻まれた繊細な模様。樹木の葉脈にも似た分岐構造が、規則的でありながらもどこか有機的な揺らぎを含んで広がっていた。
「……これは、偶然の鉱物模様ではない」
顕微鏡を覗き込んでいた藤堂科学主任が、抑えた声で呟いた。
「細胞群のパターン、成長縞の間隔。ディッキンソニアに酷似しているが、保存状態は比較にならない。立体的な細胞配置まで残っている。地球では、こうした層位はほとんど熱変成で失われてしまったのに」
葛城副艦長は無言のまま腕を組み、映像を凝視していた。慎重な性格のはずの彼が、珍しく言葉を発しなかったのは、この発見の重みを誰よりも理解していたからだ。
佐伯医官が表示パネルの心拍ログを確認しながら言った。
「野間、脈拍が上がっている。深呼吸しろ。……だが仕方ないな、これは誰でも息を呑む」
野間の胸に、不意に冷たい重みが落ちた。地球の記憶の空白を埋める断片が、今、自分の眼前に広がっている。だが同時にそれは、人類の進化史そのものを揺さぶる問いを投げかけていた。
「この保存度なら、細胞構造の痕跡を追えるかもしれない」
藤堂が続ける。
「原始的な細胞間結合、あるいは代謝系の名残が残っている可能性がある」
壁際に設置された質量分析装置が静かに起動音を立て、藤堂の指示で助手役を務める野間が試料片を搬入する。透明なスライドに封じられた数ミリの痕跡が、まるで心臓の鼓動を持つかのように強調されてディスプレイに浮かび上がった。
その瞬間、室内の誰もが一斉に息を止めた。
スクリーンに映し出されたのは、単なる印痕ではなかった。細胞列が規則的に連なり、分岐し、ゆるやかに曲線を描いていた。顕微鏡を通して眺めるその形態は、今にも呼吸を始めるのではと思わせるほど鮮やかだった。
「……まるで、まだ生きているみたいだ」
佐伯が小声で漏らした。
野間は唇を乾いた舌で湿らせ、端末に記録を打ち込み始めた。
――これは地球史で失われた“章”の発掘だ。
彼の頭に浮かんだのはその言葉だった。
先カンブリア紀の生物群集は、地球ではカンブリア紀の幕開けとともに忽然と姿を消した。化石の空白は、古生物学者を長らく悩ませ続けてきた。なぜあれほど大規模に広がった群集が、一瞬にして消滅したのか。進化の袋小路か、保存性の問題か――議論は数十年に及んでも決着していない。
だが今、火星で発見されたこの群集は、議論を根本から揺さぶろうとしていた。もしも断絶が「保存性の問題」に過ぎなかったならば、地球の記録には残らなくとも系統は連続していたはずだ。逆に、火星にだけ残り、地球では完全に消滅したのならば、それは「断絶」の証明となる。
葛城副艦長が低い声で言った。
「解析の本格開始はこれからだ。だが――我々の前にあるのは、先カンブリア期の生物群集が生きた証そのものだ」
その言葉が室内を震わせた。
野間は胸の奥で強く理解した。この瞬間、科学は「沈黙の層」に耳を傾け始めたのだ




