第7章 突然変異とオーファン遺伝子
火星ラボの空気は乾いた静けさに満たされていた。採取した氷床サンプルはクリーンベンチの中に並び、顕微鏡下の映像が壁面ディスプレイに映し出されている。原始的な群集はゆっくりと伸縮し、周期的に電位を変化させていた。
野間通信士が顎に手を当て、ぽつりとつぶやいた。
「この群集にも突然変異は起きるんですよね?……でも人間にある“オーファン遺伝子”って、それと同じものなんですか?」
その場に軽い沈黙が落ちた。藤堂科学主任は眼鏡を指で押し上げ、慎重に答える。
「関係はある。だが、同じではない」
佐伯医官が興味深そうに身を乗り出す。「どう違うんです?」
藤堂は観察映像を指さした。「突然変異はDNAの文字が一つ書き換わるようなものだ。置換、欠失、挿入――小さな変化だよ。もちろん、大きな規模の変化もある。遺伝子が複製されたり、染色体の並びが入れ替わることもある。でも基本は“誤字”や“脱字”だ」
野間が首をかしげる。「じゃあオーファン遺伝子は?」
藤堂はわずかに笑みを浮かべた。「それは“新しい物語”だ。誤字やコピペの積み重ねで、もとの文とは全く違う意味を持つ文章ができあがることがある。オーファン遺伝子はそうやって生まれる。単発の突然変異じゃなく、複数の変化が蓄積し、非コード領域がたまたまタンパク質を作るようになったり、余分に複製された遺伝子が別の機能を持ったりするんだ」
佐伯は腕を組み、唸るように言った。「つまり、突然変異は素材で、オーファン遺伝子はその素材から組み上がった新しい作品……というわけか」
藤堂は頷いた。
――
軌道上《YAMATO》。航法計算の合間に山岸准尉はデータ端末を操作し、地球から送られた学術レポートを開いた。
「面白いな……突然変異はたとえるなら一文字の誤り。でもオーファン遺伝子は、その誤りを積み重ねてできた“別の言語”に近い」
鶴見技術曹長が口をはさんだ。「つまり、航法計算に例えるならだな……一つの誤差は無視できる。でも、それが積もり積もって別の軌道計算式になってしまえば、まったく別の航路が描ける。それがオーファン遺伝子か」
山岸が笑った。「いい例えですね。しかも実際に、人間の脳を発達させる一部の遺伝子がそうやって誕生したらしい」
南條艦長は短く言った。「単なる誤りが、新しい進化の道を開く。だがそれは“偶然”と“積み重ね”の結果だ。意図された設計ではない」
――
地球の国際学会。壇上に立った学者がスクリーンにDNA配列の模式図を映し出す。
学者A:「突然変異には種類があります。塩基置換、欠失、挿入、遺伝子重複、染色体再編成……。そのほとんどは中立的か有害ですが、まれに有利なものが残り、進化の材料になります」
学者B:「オーファン遺伝子はそれとは異なります。相同遺伝子が他の生物に見つからない、新規の遺伝子です。非コード領域から偶然生まれたケース、重複した遺伝子が変化して新しい機能を持つケースがあります」
学者C:「人類には数百のオーファン遺伝子が知られています。その一部は大脳皮質の発達や免疫系の独自性に関与している可能性が高い。つまり、人類固有の進化は既存遺伝子の改造だけでは説明できず、新しい遺伝子の誕生も重要だったのです」
会場の空気がざわめいた。誰もが、進化が単なる“微修正の積み重ね”ではなく、時に“飛躍的な革新”を生み出すことに思いを馳せていた。
――
火星ラボに再び視点が戻る。顕微鏡の下で、原始的な群集が淡々と分裂を繰り返していた。そこにあるのは「誤字」レベルの変化の積み重ねだけで、新しい物語に至る気配はなかった。
藤堂は低くつぶやいた。「この群集は突然変異を繰り返している。だがオーファン遺伝子を生み出すほどの積み重ねはまだ見られない。進化の速度や環境の圧力が違うのだろう」
佐伯が続ける。「人類は誤字の連なりから、新しい物語を作った。その物語が脳や社会性を拡大させた……。この違いが、地球と火星を分けているのかもしれない」
野間は記録端末に指を走らせながら、小さくまとめた。「進化の本質は“誤字”だ。でも、ときにその誤字は、新しい言語に変わる。……人間はその奇跡の上に立っているんだな」
顕微鏡像の中で、単純な細胞群が光を反射した。未来を語ることのない、しかし確かに今を生きる存在。その姿は、人類のDNAに眠る「物語の可能性」と、奇妙に対比をなしていた。




