第5章 遺伝子に刻まれた過去の残響
火星ラボの顕微鏡の下では、単純な群集がかすかに揺れていた。糸のように細長い細胞が並び、球状の胞子がその間に漂う。色彩も模様もなく、ただ淡々と生きている姿。その静けさに、野間通信士はどこか「完結した系」を見るような違和感を覚えていた。
「単純なのに……妙に完成されているように見えるな」野間はモニタに視線を落としたままつぶやいた。
藤堂科学主任はデータ入力を続けながら答える。「人間の目から見れば単純だが、これが彼らにとっての完成形なんだろう。……ただな、我々の遺伝子の中にも“過去の形”はまだ眠っている」
佐伯医官が顔を上げる。「過去の形?」
藤堂は頷いた。「例えば、ビタミンCを作る遺伝子。昔は機能していたが、今は壊れて果物から摂取しなければならない。ヒトのGULO遺伝子は“退化遺伝子”として残っているんだ」
野間が目を見開いた。「つまり……不要になったコードが、まだ体に書き込まれているってことか」
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軌道上《YAMATO》。航法席で数値を調整していた山岸准尉が、地上から送られてきた学術資料を開いた。
「退化遺伝子か……航法計算でも似たことがあるな。古い式を消さずに残したまま使っていると、不要な項がエラーの原因になる。でも痕跡自体はずっと残り続ける」
鶴見技術曹長が横から口を挟む。「なるほどな。ビタミンCの遺伝子は壊れていても、文字の欠片みたいに残ってる。完全に削除されるわけじゃないんだ」
南條艦長が短くまとめる。「進化は“削除”じゃなく“上書き”に近い、ということだな」
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国際学会のスクリーンには、発生過程の映像が映し出されていた。
学者A:「ヒト胚は初期に尾を持ち、やがて退縮します。また鰓弓も一時的に形成されます。これは遺伝子プログラムに祖先的経路がまだ残っている証拠です」
学者B:「Hox遺伝子は体の前後・上下を決める基本設計図です。通常は現行の体制を作りますが、操作次第で“過去の形質”を部分的に再現できます。例えばニワトリ胚に歯の形成を誘導すると、祖先的な歯が生えかけるのです」
学者C:「クジラの胎児には一時的に後肢の骨芽が現れることも知られています。結局、進化は過去を完全に消すのではなく、コードを書き換え、調節し直しているのです」
会場には驚きと納得が入り混じったざわめきが広がった。
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火星ラボに再び沈黙が落ちる。藤堂は顕微鏡の像を見つめながら言った。
「この群集には“痕跡”すら見当たらない。彼らはただ単純に、環境に適応して残ってきた。だから変わる必要がなかった」
佐伯が腕を組み、深く息を吐いた。「地球の生物は違うな。進化するたびに過去を完全に消すんじゃなく、痕跡を抱え込んだまま次に進む。だから発生段階や遺伝子の奥に過去の影が顔を出すんだ」
野間は記録端末に指を走らせながら小さくまとめる。「進化は“巻き戻し”じゃなく“積み重ね”。過去は残響として鳴り続けるんだな」
葛城副艦長が短く言った。「その残響があるからこそ、時に過去の形質がよみがえる。けれどそれは、戻っているのではなく――上書きの下に埋もれた層が、一瞬のぞくだけだ」
顕微鏡の中で、単純な群集が規則正しいリズムを刻んでいた。彼らには過去の痕跡も、未来の兆しも見えない。ただ安定した現在だけが存在していた。その静けさが、むしろ地球の進化史との対比を鮮やかに浮かび上がらせていた。




