第3章 複雑さは進化の必然か?
火星ラボの空調は低い振動音を響かせていた。顕微鏡の下に広がるのは、単純な網目状の群集。丸い細胞が連なり、ところどころがゆっくりと収縮と膨張を繰り返す。数億年前のエディアカラ紀の化石をそのまま生き返らせたかのようだった。
藤堂科学主任が数値を読み上げる。「構造は極めて単純。細胞間の分化もほとんど確認できない。……だが驚くべきは、この姿のまま長期間持続していることだ」
佐伯医官が椅子にもたれ、静かに応じる。「人間の視点だと“複雑にならない=進化が止まっている”と考えがちだ。でも実際には、環境に合っているからこそ変わらず残ってきたのだろう」
顕微鏡を覗いていた葛城副艦長が言葉を継いだ。「進化は直線的な進歩じゃない。環境に合えば単純でもいい。シアノバクテリアだって、地球史の三分の二を支配してきた」
野間通信士は小声で呟いた。「……じゃあ、複雑さって何なんだろう。僕らが生きている理由も、単純なものが残った結果の一つにすぎないのか」
ラボに沈黙が落ちた。顕微鏡の中で単純な群集がゆるやかに呼吸を刻む。その姿は、進化の“入口”がそのまま保存されたかのようだった。
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軌道上の《YAMATO》。鶴見技術曹長は外殻モニタを切り替えながら、地球からの学術中継を見ていた。
「クラゲもワニも、数億年ほとんど姿を変えていない。複雑さがなくても環境に合えば残れる。むしろ余計な構造を持つ方が不利になることすらある」
航法計算を続けていた山岸准尉が、紙の上に鉛筆を走らせながら答える。「数式と同じです。余分な項を抱え込むと解が不安定になる。単純化はむしろ合理的なんです」
南條艦長はスクリーンから視線を外さずに言った。「複雑さは価値じゃない。ただの戦略の一つだ。生き残るための手段にすぎん」
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国際学会の壇上。研究者たちが、大絶滅後の生物進化をテーマに議論していた。
学者A:「進化は複雑化ではなく適応です。バクテリアは単純ですが、環境適応力では今も最強クラスです」
学者B:「カンブリア爆発で外骨格や眼が一斉に現れたのは、新しいニッチが大量に開いたからです。環境がそうさせたのであって、必然的な進歩ではありません」
学者C:「逆に単純化した方が有利な例も多い。寄生虫は消化器や感覚器を捨てて効率化し、洞窟魚は目を失い、代わりに感覚器を発達させた」
会場のスクリーンには、化石と現生種の対比が映し出される。原始的なワニの骨格と現生のワニはほとんど変わらず、寄生虫の退化した体はむしろ環境に最適化されていた。
司会者がまとめる。「複雑さの増減は環境によって決まります。進化には方向性がない。だが大絶滅のように新しい環境が広がった時代には、多様な機能を持つ“複雑な形態”が有利になりやすい。そのため、進化が複雑に見える傾向があるのです」
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火星ラボ。遅延通信でその議論を見守っていた藤堂が、顕微鏡の映像に目を戻す。
「ここには複雑化も単純化もない。ただ安定している。環境が変わらなければ、それで十分なんだろう」
佐伯が頷く。「進化に方向性はない、という証拠の一つだな。僕らが複雑さを求めるのは、人類自身が複雑さの産物だからだろう」
野間は記録端末に指を走らせながら、小さくつぶやいた。「進化=適応。その結果が複雑か単純かは……環境が決める」
葛城副艦長が短く締めくくった。「我々が今見ているのは、停滞ではなく、もう一つの安定だ。地球とは別の答えだ」
顕微鏡の下で群集は黙ったまま脈を刻んでいた。複雑になることも、単純化することもなく、ただ環境に適応した姿として。




