第2章 大絶滅と進化のリセット効果
火星ラボの空気は、低く唸るポンプの音だけが支配していた。隔離チャンバー内では、氷床から抽出したサンプルがわずかに融解し、顕微鏡下に淡い群集が姿を現している。糸状の膜と球状の細胞が絡み合い、脈動のようなリズムを繰り返していた。
藤堂科学主任はモニタに映る像を拡大しながら記録を入力する。
「……単純だ。複雑さがまるでない。これではエディアカラ紀の群集と大差ない」
佐伯医官が頷いた。「そうだな。進化の途中で何度も環境の揺さぶりを受けてきた地球とは違う。大絶滅がなければ、生物はこうやって停滞し続けるのかもしれん」
葛城副艦長は腕を組み、顕微鏡像を見つめたまま口を開いた。「地球の進化も、直線的な進歩じゃなかった。大絶滅というリセットが、古い支配者を消し去り、新しい形を押し出した。それがなければ人類は生まれなかっただろう」
野間通信士はためらいがちに口を挟んだ。「じゃあ……大絶滅があったからこそ“進化したように見える”のか?」
藤堂は短く頷いた。「そうだ。進化は階段を登るように高等化するんじゃない。環境が一度壊され、空白ができたとき、そこに適応した形が広がる。それが“進化した”と見えるだけなんだ」
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軌道上の《YAMATO》。鶴見技術曹長は、地球から送られてくる学術シンポジウムの映像を眺めながら呟いた。
「大絶滅の直後に出てくる生き物は、いつも“より進化した”って言われる。だが、実際は古い系統がいなくなって空いた場所を埋めただけだ」
航法計算に目を落としたまま、山岸准尉が言葉を続ける。「ニッチが空けば、競争関係はリセットされる。数式で言えば初期条件の再設定だ。生き残った者が分岐して、多様化する」
南條艦長は画面から目を離さず、低く言った。「進歩じゃなく再編……。だがその再編がなければ、我々も存在しなかった」
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地球・国際学会。スクリーンに地質年代と大絶滅の一覧が表示される。
古生物学者Aが語る。「大絶滅は単なる大量死ではありません。三葉虫、板皮類、恐竜……既存の支配者が消えると、生態系のニッチが空く。その空白が新しい群にチャンスを与える」
学者Bが続ける。「これが“適応放散”です。白亜紀末の恐竜絶滅のあと、小型哺乳類は急速に多様化し、コウモリ、クジラ、霊長類に分岐しました。形態が一気に広がるので“進化した”ように見える」
別の研究者が加える。「環境条件の変化も重要です。ペルム紀末には酸素濃度が低下し、効率的な呼吸システムを持つ系統が有利になった。旧来の単純な体制では生き残れなかったのです」
最後に哲学的なまとめがなされる。「進化に方向性はない。絶滅が旧い系統を排除し、残ったものが適応して広がる。その結果が“進化した”ように見えるにすぎない」
会場にざわめきが広がる。進化を“直線的な進歩”とみなす見方が否定されていった。
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その議論を遅延通信で見守りながら、火星ラボのクルーは顕微鏡像に視線を戻した。
藤堂は淡々と言葉を継ぐ。「ここにはリセットがない。だから多様化も、複雑化もない。ただ同じリズムを繰り返している」
佐伯が頷いた。「大絶滅がなければ、地球もこうだったのかもしれん。単純な群集が何億年も続いていた可能性だ」
野間は小さく呟いた。「進化は進歩じゃない。ただの結果……」
葛城副艦長は視線を顕微鏡から外さず、短く言った。「我々が見ているのは、もう一つの可能性だ。停滞の中に閉じ込められた進化。その対照が、地球のリセットだ」
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学会の締めくくりが中継で流れた。
「大絶滅後に現れる形態が“進化している”ように見えるのは、三つの要因によります。第一に、古い支配者が消えてニッチが空いたこと。第二に、新しい環境条件が効率的な形態を選び取ったこと。第三に、適応放散で多様性が一気に拡大したこと。これらが合わさって“進化の進歩”に見えるのです」
――
火星ラボの静けさ。顕微鏡の中で脈動を続ける群集は、進化の入口にとどまり続けていた。
南條艦長の声が、遅れて届いた中継の上から重なるように響いた。
「進化は直線じゃない。だがリセットのたびに、別の未来が切り拓かれてきた。人類もそのひとつにすぎん」
顕微鏡の下、単純な群集は黙って呼吸を刻み続けていた。




