第70章 民間人の悲劇は繰り返されるか
首里城の地下深く。第32軍司令官・牛島満大将の地下壕では、重苦しい空気が支配していた。壁にかけられた戦況図には、米軍の赤い矢印が、もはや抵抗を受けることなく首里へと迫っている。伝令兵が次々と駆け込み、各部隊の壊滅的な損耗を報告する。その声は、絶望に満ちていた。
「司令!第三陣地、火炎放射器部隊に突破されました!生存者、極めて少数!」参謀の一人が、顔を真っ青にして叫ぶ。牛島大将は、その報告に、無言で頷くしかなかった。
「長参謀長…」牛島大将が、隣に立つ長参謀長に視線を向けた。その視線には、言葉にならない問いが込められていた。長参謀長もまた、憔悴しきった顔で、しかし決意を秘めた目で牛島を見つめ返す。
「大将…もはや、組織的抵抗は限界にございます」長参謀長が、絞り出すような声で言った。その言葉は、彼らが信じてきた「本土決戦」という大義が、この沖縄の地で潰えようとしていることを意味していた。
その時、一人の若い参謀が、震える声で口を開いた。「司令…民間人の…壕への…避難は…進んでおりますが…もはや…時間も…場所も…」彼の言葉は、途中で途切れた。しかし、その先に続く言葉は、そこにいる全員が理解していた。――「玉砕」という、悲劇的な選択肢。軍が民間人に自決を促す、という、歴史が繰り返すはずのない、忌まわしい兆候が、その場の空気に重くのしかかった。
「待て!」
その声は、地下壕の奥から響いた。そこに立っていたのは、佐久間機関科先任曹長だった。彼の迷彩服は泥と血で汚れ、顔には深い疲労が刻まれているが、その瞳には、未来の価値観を背負う者としての、強い怒りと拒絶が宿っていた。彼の隣には、高梨優三等海佐が、血にまみれた白衣のまま、同じく強い眼差しで牛島大将を見つめている。
「大将!それは…それは断じて許されません!」佐久間が、一歩前に進み出た。彼の声は、疲労でかすれているが、その言葉には、未来の日本人が持つ、生命への絶対的な尊重が込められていた。「民間人を…自決に追い込むなど…!我々が護ろうとした未来に…そのような悲劇は…あってはならないのです!」
高梨三等海佐も、佐久間の言葉に続いた。「司令官殿。我々は、未来において、二度とこのような悲劇を繰り返さないと誓いました。民間人の命は、何よりも尊いものです。彼らを、そのような選択に追い込むことは…断じて許容できません!」彼女の言葉は、医者としての倫理と、未来の人間としての価値観から発せられていた。
牛島大将は、佐久間と高梨の言葉に、目を見開いた。彼らの言葉は、この時代の軍人には理解しがたい、しかし、どこか胸を打つ響きを持っていた。
長参謀長が、佐久間を睨みつけた。「貴様ら、何を言うか!これは、大義のため、国家のため、やむを得ぬ選択なのだ!」
「大義のため、ですか!」佐久間が、怒りを込めて言い返した。「我々の未来では、その『大義』が、どれほどの悲劇を生んだか!民間人の命を犠牲にしてまで得られる『勝利』など、存在しないのです!」
牛島大将は、静かに手を上げた。
「…分かった」牛島大将の声は、絞り出すように小さかったが、その言葉は、地下壕の重い空気を切り裂いた。「民間人の自決を促すような指示は、断じて行わぬ。全ての民間人に対し、可能な限りの安全な避難経路を確保せよ。そして、残存する全ての兵力は、その避難を援護し、一刻でも長く敵の進撃を食い止めるのだ」。
長参謀長は、驚きに目を見開いた。それは、彼らの戦術教範にはない、異例の、そして「敗北」を前提とした命令であった。