第144章 工場を去る技師
愛媛の海風は、鉄と油の匂いを運んでいた。造船所の巨大なドックには、未完成の艦艇の船殻が横たわり、火花が青白く散っていた。戦争の長期化で護衛艦や補給船の需要は急増し、全国から熟練工がかき集められていた。北海道の工場が被災したことで、避難してきた溶接工や配管工もこのラインに立っていた。
彼らと肩を並べるのは、韓国から来た技師たちだった。祖国での産業基盤が戦火に巻き込まれた彼らは、日本での労務配置によって命をつなぎ、技能を発揮する場を与えられていた。
「ここはミリ単位で合わせろ」
北海道出身の熟練工が、厚板の継ぎ目を指さす。
「いや、KR規格ならインチ換算だ。このままじゃ図面と合わない」
韓国人技師が反論する。
作業は一瞬止まり、火花の音が途絶えた。両者はにらみ合ったが、すぐに現場監督が割って入った。
「喧嘩してる暇はない。合わせ方は後で調整する。今は仮止めを進めろ。艦が出なきゃ前線が持たん」
再び火花が散り、作業は続いた。
摩擦は規格の違いだけではなかった。安全文化の差も浮き彫りになった。
「手袋を外せ! 溶接の感覚が鈍る!」と韓国人技師が叫ぶと、隣の日本人が驚いたように振り返った。
「危ないだろう! 火傷したら戦力が減るんだぞ!」
「俺たちの工場では素手が普通だ!」
「ここでは違う!」
言葉の壁と文化の壁が重なり、作業ラインは常に張り詰めた空気に包まれていた。
しかし、仕事を奪い合うことはなかった。むしろ人手は圧倒的に不足していた。誰かが抜ければ、その穴を埋める者はいない。だからこそ、規格や安全の違いに苛立ちながらも、全員が作業を続けざるを得なかった。
昼休憩、錆びたベンチに腰掛けた熟練工は、缶詰のパンをかじりながら呟いた。
「ここじゃ、技の伝承どころじゃない。俺たちのやり方も、あいつらのやり方も、戦争が終われば残らないかもしれん」
隣で水筒を口にした韓国人技師が、拙い日本語で返す。
「でも……造るのは同じ船。敵、同じ。仲間」
一瞬、言葉が途切れた。互いに違いを抱えながらも、目の前にある船を完成させるしかない。
午後、船殻の中に響く音は再び高まった。日本語の指示に韓国語の返事が重なり、通訳が走り回る。火花の雨の中で、汗と油にまみれた彼らの姿は同じだった。
夕暮れ、作業を終えた工員たちはドックの端に立ち、完成を待つ艦艇の巨体を見上げた。そこには未だ無数の溶接線が残っていた。摩擦も不安も消えてはいない。だが、船が出なければ前線の兵が飢え、補給が途絶える。
熟練工は煙草に火をつけ、赤く燃える火を見つめながら言った。
「結局、俺たちは違いを抱えたままでも、船を造るしかないんだな」
韓国人技師は黙ってうなずいた。二人の背後で、ドックの海面が夕日に赤く染まっていた。




