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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン10

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第143章 研究室の空白



 名古屋大学のキャンパスは、戦時下の混乱を映す縮図だった。講義棟の窓は防爆フィルムで覆われ、理工系研究棟のロビーには迷彩服姿の自衛官が立っている。東京壊滅で首都圏の研究機関は機能を失い、ここが「最後の頭脳拠点」として指定されていた。だがその内部では、静かに亀裂が広がっていた。


 研究棟の一室、薄暗い実験室に並ぶ装置は半分が止まっていた。電子顕微鏡の電源は落とされ、試薬棚には封を切られぬままのボトルが埃をかぶっている。戦前から続く研究室だったが、所員の大半は国外へ流出した。アメリカや欧州の大学から招聘を受け、命の保証と研究環境を求めて旅立ったのだ。


 残されたのは数名の日本人助手と、新たに補充された台湾・韓国・米国出身の研究者たちだった。彼らは難民として受け入れられたのち、専門を生かすためにこの研究棟へ配属されたのである。


 「このデータ、単位が違う」

 韓国人研究員のキムが、ノートパソコンを指差した。彼の使用する規格は韓国産業規格(KS)準拠で、表記はミリ単位。だが日本側の助手はJIS規格で管理しており、同じ試験片の数値がかみ合わなかった。


 「こっちは国際単位系で揃えてる。なぜ勝手に変えるんだ」

 助手の声は苛立ちを含んでいた。


 「変えたんじゃない、元から違うんだ。韓国の装置はこうなんだよ」


 口論はすぐに高まり、実験台の上に積まれた試料が揺れた。止めに入ったのは台湾出身の研究者だった。

 「待って、両方正しい。でも今は統一しないと論文にも軍への報告にも使えない」


 彼女は英語で言ったため、場は一瞬凍りついた。英語は共通言語として採用されていたが、日本人助手には苦手な者も多い。会話が遅れ、苛立ちが重なっていく。


 別の机では、米国出身の物理学者がデータベースを操作していた。彼は米軍標準のフォーマットを用いており、ファイル名には暗号のようなコードが並んでいた。日本側のシステムには読み込めず、変換に数時間を要する。

 「こんなの非効率だ。なぜ日本のシステムに合わせない」

 助手がこぼす。だが物理学者は肩をすくめた。

 「軍との契約がある。米軍が要求する形式で出さなきゃならない」


 研究は進んでいるようで進んでいなかった。データは山積みになり、形式の違いで何度もやり直しが必要だった。


 夕方、教授が研究室に戻ってきた。痩せた体を白衣に包み、疲労の色を浮かべていた。彼は黙って装置を見回し、止まったままの電子顕微鏡の前で立ち止まった。

 「ここには、かつて二十人以上の学生がいた。今は半分が国外へ渡った。残った者も、もう疲れている」


 助手が口を開いた。

 「教授、どうすればいいんですか。このままじゃ研究になりません」


 教授はしばらく沈黙し、やがてゆっくりと答えた。

 「規格もデータも方法も違う。だが、いま必要なのは“結果”だ。戦場で役立つかどうか、それだけを問われている」


 その言葉に、研究員たちは顔を見合わせた。ここは学問の場であるはずだった。だが戦争がすべてを変えていた。科学は純粋な探求ではなく、国家を生かすための道具になっていたのだ。


 窓の外には、瀬戸内海に沈む夕日が赤く光っていた。港には避難民の列がまだ続き、荷役の掛け声が響いている。研究室に残るのは、統一されないデータと、互いにすれ違う言語、そして深い沈黙だけだった。

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