第132章 文化の旅立ち
福岡・天神の裏通りに佇む小劇場。その入口に貼られたポスターには、赤いインクで「最終公演」と記されていた。かつては学生や市民で賑わった会場だが、この夜は避難民や疲れ切った兵士までもが足を運び、客席を埋め尽くしていた。戦火と停電に怯える日常の中で、この舞台が「最後の灯」となることを誰もが知っていた。
舞台袖では俳優たちが緊張した面持ちで並んでいた。衣装の縫い目はほつれ、化粧品も底を突いている。それでも照明が当たれば、彼らは精一杯の表情を作るしかない。演出家の水谷は控室の片隅で、フランス・アヴィニョン演劇祭とカナダの国際映画祭から届いた招待状を握りしめていた。紙は薄く擦り切れていたが、そこには「亡命先」としての希望が刻まれていた。
「これが日本での最後の舞台になる」
水谷は静かに告げた。仲間たちの目に涙が浮かんだ。
開演のベルが鳴り、舞台が明るく照らされる。演目は「灯のない街」。自由を奪われた住民がわずかな希望を探す物語だった。俳優の声は張り裂けるほどに響き、観客は息を詰めて聴き入った。終盤、舞台に立つ女優が「言葉を奪われても心は奪えない」と叫んだ瞬間、会場はすすり泣きに包まれた。
幕が降りると、観客は総立ちになって拍手を送った。その音は劇場を震わせ、外の空襲警報すら掻き消すほどだった。
「どうか残ってくれ!」と誰かが叫んだ。
水谷は舞台上で首を振った。
「表現の自由がなければ演劇は死ぬ。生き延びるために、海を渡る」
外に出ると、冷たい雨が降っていた。映画監督の坂井は古びたカメラを梱包し、助手に託していた。彼はカナダの映画祭に出品するため、近く出国する予定だった。
「残ることは裏切りですか?」と若い俳優が尋ねた。
坂井は答えた。
「違う。死なないことが抵抗だ。作品を生み続けられる場所に行くだけだ」
その夜、小劇場のロビーでは、残留を決めた俳優と旅立つ仲間が最後の酒を酌み交わしていた。外では防空警報が鳴り響き、人々が避難する声が重なった。
「俺たちがいなくなれば、この劇場はどうなる?」
「建物は残る。でも魂は出て行く」
言葉が途切れ、皆黙って杯を傾けた。
翌朝、博多港には国外へ向かうフェリーが停泊していた。アーティストや映画関係者がスーツケースや作品を抱えて乗り込んでいく。ポスターや絵画を段ボールに詰めた者もいた。ファンや学生たちはフェンス越しに泣きながら手を振り、船上の彼らは無言で応えた。
出航の汽笛が港を揺らす。白い航跡が広がり、街に残されたのは、色褪せたポスターと空虚な舞台だけ。若い俳優の一人は劇場に戻り、誰もいない客席に向かって台詞を口にした。声は虚しく反響し、すぐに消えた。
「戦時の精神的支柱が、ひとつずつ海の向こうへ消えていく」
彼は呟いた。その言葉は誰に届くこともなく、暗闇に沈む舞台に吸い込まれていった




