第106章 Dedovshchina
夜の旭川郊外、小学校を接収したロシア軍の兵舎は、静まり返った外とは対照的に、内部で異様な熱気を帯びていた。廊下の蛍光灯は半分しか点かず、黄ばんだ光が長い影を落とす。教室は兵舎に転用され、机は隅に押しやられ、床にはベッド代わりの寝具が乱雑に並んでいた。
その一角で、新兵のアレクセイが古参兵に囲まれていた。まだ十八歳の彼は、訓練を終えて数週間しか経っていない。痩せた体に制服がぶかぶかで、靴は雪で濡れていた。
「おい、見せろ」
古参の一人がアレクセイの背嚢を乱暴に開け、中から乾パンと缶詰を取り出す。
「これ、俺たちのだろう?」
言いがかりの声に笑い声が混じる。
アレクセイは必死に抗弁した。
「配給で受け取ったばかりです! 家から送ってきたものじゃありません!」
だが返ってきたのは拳だった。頬に鈍い衝撃が走り、口の中に鉄の味が広がる。
非公式のヒエラルキー
古参兵たちは、順番に彼を殴り、蹴り、床に押し倒した。
「黙れ、新入り。ここでは俺たちが法だ」
教室の片隅では、別の新兵たちが身を縮め、視線をそらしていた。助けるどころか、見て見ぬふりをするしかない。次は自分の番になるからだ。
アレクセイは靴を脱がされ、ポケットの中の小銭まで奪われた。古参兵はそれを弄びながら笑う。
「ほら、これで酒でも買ってきてくれ。いや、お前が行く必要はない。俺たちが飲むんだから」
教官や将校は姿を見せない。兵舎の秩序は、事実上古参と新兵の非公式ヒエラルキーに委ねられていた。権力は拳と恐怖によって維持される。
殴打が終わると、古参兵たちはアレクセイに命じた。
「明日の巡察で、市民の家から何か持ってこい。食料でも、酒でも、女でもいい」
命令の口調は冗談めいていたが、眼差しは鋭かった。拒めば次はもっと激しい暴力が待っていることを、アレクセイは理解した。
その夜、彼は寝具の上で眠れぬまま震えていた。頬は腫れ、唇は切れて血が滲んでいる。周囲の新兵も目を閉じてはいたが、浅い呼吸が恐怖を物語っていた。
暴力は単なる“しごき”では終わらない。翌日には必ず、戦場や占領地での行動として現れる。古参兵に命じられた新兵は、市民から略奪を行い、弱者に銃を向ける。それは命令ではなく、生き残るための“通過儀礼”だった。
後に捕虜となったロシア兵の証言は、この構造を裏付けていた。
「最初は嫌だった。市民の家を襲うのも、泣いている子どもからパンを奪うのも。でも、やらなければ俺が殴られる。だからやった。殴られ続けるよりは、誰かを殴る方が楽だった」
その声には後悔よりも、諦念が滲んでいた。彼にとってDedovshchinaは文化であり、日常であり、軍隊を支配する“もう一つの法律”だった。
僕は傍受した証言と目撃談をノートに書き付けながら、背筋が寒くなるのを感じていた。
旭川の住民が恐れているのは銃口だけではない。兵士たちの内部で連鎖する暴力が、そのまま市街地に流れ込んでいるのだ。
兵舎で新兵を殴る拳は、翌日には市民の顔を打ち据える。
寝具を奪う行為は、住民の食料や財産を奪う行為に変わる。
辱めと嘲笑は、占領地の女性や子どもへの虐待に直結する。
Dedovshchina――その言葉は単なる「兵舎のいじめ」ではない。暴力が文化となり、組織全体を支配する構造だ。
夜明け、兵舎の窓から差し込む薄明かりの下で、古参兵が笑いながら新兵に命じる声が聞こえた。
「今日も市民から“献上品”を持ち帰れ。拒むなよ、でなきゃここで死ぬぞ」
アレクセイは黙って頷いた。その顔には、恐怖と同時に、自分が次の暴力の加害者になる運命を悟った諦めが浮かんでいた。
僕は記録にこう書き残した。
「Dedovshchinaは軍隊内部の闇にとどまらない。兵舎で生まれた暴力は占領地で再生産され、市民を呑み込む。文化として継承された残虐は、戦術を越えて人間そのものを歪めていく」。




