第97章 深海の探査
沖縄沖の海面は、風もなく静まり返っていた。だがその下、数百メートルの暗黒の海底には、一隻の自衛艦が横たわっていた。数か月前の攻撃で沈没した護衛艦「○○」。その艦内にいまも多くの乗員が眠っているとされていた。
米軍のDPAA(国防総省会計未帰還兵務局)と海上自衛隊の合同チームは、調査母艦の甲板上で準備を進めていた。クレーンに吊るされたROV(遠隔操作無人潜水機)が、黄色い機体をきしませながら海へと降ろされる。水中ライトが点灯し、ケーブルを通じて管制室のモニターに映像が送られてきた。
「潜航開始。深度三百メートル」
オペレーターの声が室内に響く。大型スクリーンには、青黒い水圧の闇を切り裂くライトの光が映し出され、やがて錆び付いた鋼鉄の壁が現れた。船体の番号がかすかに判読でき、全員が息を呑んだ。
ROVはゆっくりと艦内へ侵入する。崩れた隔壁、散乱する機材、そして泥に覆われた甲板。静寂の中にただ機械のプロペラ音だけが響く。
「カメラ、右舷側」
指示が飛び、画面にブーツが映し出された。泥に半ば埋もれた黒い革靴。自衛隊の規格品であることは一目で分かった。オペレーターがズームをかけると、靴の縁にはまだ名前を記した白布タグが残っていた。
「識別可能だ……」
自衛官の技官が声を震わせた。
さらにROVは前進し、艦内の居住区に入った。そこでは制服の破片や、肩章が漂うように残されていた。階級章の金色の星がライトに反射し、画面いっぱいに輝いた瞬間、管制室の空気が凍りついた。そこに映っていたのは、失われた士官のものに他ならなかった。
「記録、確保」
映像はすぐに保存され、証拠として暗号化された。DPAAの担当官が言った。
「これは“帰還の証拠”になります。遺族にとっては、遺体そのものでなくとも、確かな証しとなる」
艦内は危険すぎて遺体そのものを引き上げることはできない。船体の崩壊、爆薬残存のリスク、そして水深の圧力。だからこそ映像と遺品の記録こそが「帰還」に代わるものとなるのだった。
モニターを見つめていた一人の若い自衛官が小さく呟いた。
「……本当に、ここにいるんだ」
その映像は数日後、横田基地に設けられた遺族ブリーフィングで公開された。暗い会議室で、家族たちはスクリーンに映る海底の艦内を凝視した。ブーツ、肩章、散乱した軍帽。そのひとつひとつに、彼らは愛する人の面影を見出した。
ある母親は椅子に顔を伏せ、声を殺して泣いた。
「この靴は、あの子の……」
技官がそっと言葉を添えた。
「DNA鑑定はできません。しかし記録と照合から、極めて高い蓋然性があります。これが“帰還”の形です」
母親は涙を拭いながらも、小さく頷いた。完全な遺体が戻らなくとも、証拠がある。確かにここに生き、ここで眠っている。それを知るだけで、胸に空いた穴が少しだけ埋まるのだ。
報告を終えた後、DPAAの責任者が記者会見で語った。
「海は多くの死者を抱えたままです。だが我々は、彼らを“記録の中で帰還させる”義務を負っています」
その言葉は、日本社会に新しい問いを投げかけた。帰還とは肉体のことなのか、記録のことなのか。だが確かなのは、海底の闇から拾い上げられた小さな証拠が、家族にとっては何よりも大きな「存在の証明」となるという事実だった。
沖縄の静かな水面に、捜査母艦の影が揺れた。海の底には、まだ数えきれぬ声なき存在が眠っている。ROVのライトが再び暗黒に沈むとき、未来へ続く「帰還の道」は静かに記録されていった




