第94章 南の航路
北九州港。曇天の下、岸壁には古びた貨物船が横付けされていた。積み荷は食料でも衣料でもない。ドラム缶に詰められた化学溶剤、医薬品の中間体、そして樹脂原料。工場の奥で静かに生産され続けたそれらは、今や「戦略物資」と呼ばれる。
岸壁では防衛省の係官が一つひとつ封印を確認し、リストに赤鉛筆で印をつけていく。その横で船員が小声で囁いた。
「弾薬じゃなくて薬を運んでるのに、どうしてこんな護衛が要るんだ?」
相棒の甲板員が苦笑した。
「今はどっちも同じさ。沈められれば、誰かが死ぬ」
港の沖合には、海自の護衛艦「あきづき」が待機していた。灰色の艦体にレーダーとCIWSが並び、まるで戦闘に出るような構えだ。実際、任務は輸送護衛。南シナ海の影響下を避け、フィリピン東方の外洋を抜ける航路を守ることだった。
夕刻、出港サイレンが鳴り、貨物船のエンジンが唸る。護衛艦と並走する形で船団が動き出すと、甲板にいた若い船員が空を見上げた。頭上にはP-1哨戒機が低く旋回している。
「薬品にまで哨戒機か……」
彼の声には戸惑いと苦笑が混ざった。
航海は常に緊張の連続だった。フィリピン東方の公海は、中国潜水艦が潜むとされる危険海域。レーダー室の自衛官たちは、スクリーンの一点一点を食い入るように睨んでいた。
「ソナーに微弱反応、方位一一〇」
報告が飛ぶと、艦内に一瞬、緊張が走る。すぐに「鯨の群れ」と判明したが、誰も表情を緩めなかった。
夜、甲板の端で煙草を吸う船員に、護衛艦の士官が声をかけた。
「眠れるか?」
「いや……もし沈んだら、俺たちのせいで薬が途絶える。そう思うと」
士官は短く頷き、灰色の海を見つめた。
「弾薬を運んでいるのと同じだ。これがなければ、戦線も病院も止まる」
三日後、フィリピン・ルソン島西岸、スービック湾。かつて米海軍の前進基地だった港は、いま再び軍事拠点に変わっていた。岸壁には星条旗とフィリピン国旗が並び、米軍兵站部の将校たちが待ち構えていた。
貨物船が接岸すると、すぐに米兵たちがフォークリフトで積み荷を降ろし始める。化学品のドラム缶が並ぶ光景を見て、ある船員がぼそりと呟いた。
「これじゃ弾薬庫だな」
受領書には「United States Navy」と太字で印字され、フィリピン側の印鑑は小さく添えられるだけだった。米軍が直接受け取り、分配を決める。フィリピン当局の役割は形ばかり。
岸壁で任務を見守っていた自衛官は、静かに汗を拭った。
「外交のカードを俺たちが運んでいる……」
その言葉に同僚が応じる。
「だが、この荷がなければフィリピンは日本を信じない。中国に飲み込まれるだけだ」
夕焼けの中、空には再び哨戒機が旋回していた。輸出とは利益のための取引ではなく、いまや国家を繋ぎとめる鎖だった。
護衛艦の艦長は最後に短く記録を残した。
――「この航路が絶たれた瞬間、日本もアジアも沈む




