第92章 熊本のシリコン
熊本県菊陽町。かつて「シリコンアイランド再生」と称されたTSMC熊本工場――通称JASMの正門には、いまや研究者よりも迷彩服の人影の方が多かった。道路脇には海自の軽装甲機動車が並び、銃を抱えた隊員が車列を監視している。
夜明け前の冷たい空気の中、工場棟の白い壁が照明に浮かび上がっていた。そこから出てきたのは銀色のケース。人間の腰ほどの高さで、内部には直径300ミリのシリコンウェハが幾層にも重ねられている。表面は青白く反射し、蛍光灯の光を受けて虹色の干渉模様を放っていた。
「破損ゼロ、数量確認済み」
白衣を着た技術者が震える声で報告する。その隣で自衛官が即座にチェックリストにサインし、ケースはフォークリフトに載せられた。車体の横には「軍需特別輸送」と赤字で大きく書かれている。
フォークリフトのエンジン音が夜を震わせるたび、技術者たちは無意識にウェハへ視線を送った。それは、もはや研究成果でも産業製品でもなかった。一枚のディスクが、そのまま戦闘機の眼となり、ミサイルの脳となる。
「この一枚で、戦闘機が飛び、ミサイルが誘導される」
若い技術者が思わず呟く。隣の同僚が黙って頷き、ケースに貼られた封印シールを見つめた。そこには日米合同の刻印が押され、受け取りは米空軍横田基地と記されている。
工場の敷地を出た輸送車列は、即座に装甲車に囲まれた。先頭は海自の高機動車、その後ろにウェハを積んだトラック、さらに米軍のM-ATVが並走する。まるで弾薬輸送のような厳戒態勢だった。道路沿いの住民は家の窓から青ざめた表情でそれを見送り、「あれが国を支える命綱だ」と囁き合った。
目的地は熊本空港。滑走路の端には、既にC-17グローブマスターがエンジンを唸らせて待っていた。灰色の巨体は暗い空に不気味な影を落とし、開いた貨物ハッチの奥は黒い洞窟のようだった。
「ケース一、積載開始!」
指揮官の号令とともに、フォークリフトが唸りを上げる。ウェハを積んだケースが次々と機体の腹に吸い込まれていく。米兵と自衛官が並び、封印番号を一つひとつ読み上げ照合する。
その場に立ち会った工場長は、静かに拳を握りしめていた。
「本来なら、世界中のスマートフォンや自動車に組み込まれるはずのものだ……」
誰にも聞こえない声でそう呟く。だが現実には、すべてが軍需優先。市民の生活を支えるはずの半導体は、今や兵器のために飛んでいく。
積載が進む中、米軍将校が低い声で言った。
「君たちの工場は、この戦争の心臓だ。止まれば我々の空も海も盲目になる」
通訳が訳すと、技術者たちは苦い笑みを浮かべた。誇りか、恐怖か、自分でも分からなかった。
最後のケースが固定され、カーゴドアが閉じる。地響きのようなエンジン音が高まり、C-17は滑走を始めた。冬の朝焼けを背に、巨体はゆっくりと浮かび上がり、東の空へ消えていった。
静寂が戻った滑走路に立ち尽くす技術者の胸に残ったのは、空洞のような感覚だった。自らの手で磨き上げたウェハが、いまや「兵器の血流」となり、戦場の空へ送り出されている――その事実だけが重く残った。
熊本のシリコンは、もはや日本の産業の象徴ではなかった。それは国家の延命を賭けた、軍需資源そのものだった




