第91章 工場の火を守れ
福岡県宮田。山裾に広がる巨大な自動車工場の屋根は、戦時下の曇り空に沈んでいた。かつて一日数千台の車が組み立てられ、海外へ送り出された生産ラインは、今では半分しか動いていない。ベルトコンベヤの速度は落とされ、組立ロボットのアームは時折止まり、作業員が部品不足を補うため手作業で調整を繰り返していた。
「また部品待ちか……」
現場主任が顔をしかめる。台湾から届くはずの電子制御ユニットが欠品し、ラインの一角では未完成車が列を作っていた。エンジンもかからないまま、ただシートにビニールを被せられた車体が沈黙している。
工場の食堂は昼時でも半分空席のままだ。従業員の多くが動員や避難で姿を消し、残った者も疲労の色を隠せない。壁の掲示板には「稼働率46%」と赤い数字が貼り出され、下には経営陣の署名入りで「火を絶やすな」と書かれた紙が掲げられていた。
その経営陣は今日、労働組合との緊急協議に臨んでいた。会議室の窓から見えるのは、遠くに立ち並ぶ完成車の列。工場長は額に汗を浮かべながら言葉を選んだ。
「我々はまず輸出用のハイブリッド車を優先すべきだ。米軍も政府もそれを望んでいる。外貨を稼がなければ工場自体が維持できない」
組合側の代表は机を叩いた。
「それでは国内の物流が死ぬ! トラックを出さなければ食料も燃料も港から動かせないじゃないか」
会議室にざわめきが走る。窓の外では、ラインを止められた作業員たちが無言でこちらを見ていた。
「外貨がなければ輸入が止まる」
「輸入が届いても、運ぶトラックがなければ意味がない」
互いの言葉は交わることなく、鋭くぶつかり合った。
会議後、現場に戻った組合代表は、溶接の火花を浴びながら作業を続ける若い工員に声をかけられた。
「俺たちは何を作ればいいんですか。輸出用ですか、国内用ですか」
代表は答えに窮し、ただ「どちらも必要だ」としか言えなかった。
夕方、工場のサイレンが鳴り、残業組が集合した。資材不足で流れる車体は少なく、作業員の目には焦燥が浮かんでいた。それでも彼らは持ち場に立ち続けた。ベルトコンベヤの上をゆっくりと流れる車体に、最後のネジを締め、最後のチェックを施す。その姿は、もはや経済活動というより祈りに近かった。
夜、工場の外に出ると、山の稜線の向こうで航空機の低い音が響いた。輸出か、それとも戦場か。誰も確かめることはできない。だが工員たちは知っていた。この工場の火が消えれば、日本はさらに深く沈むことを。
ある老作業員が仲間に向かって呟いた。
「車を作ること自体が、もう戦いなんだ」
その言葉に誰も返事をしなかった。ただ全員が無言で頷き、再び持ち場へと歩き出した。
――宮田の工場は、半分しか動かぬラインであっても、まだ火を守り続けていた。呻きにも似たベルトの駆動音が、夜の闇に消えていくまで




