第89章 北方での遭遇
北海道・稚内の郊外。雪解けの泥にまみれた戦場には、まだ火薬の匂いが残っていた。曇天の下、焼け焦げた装甲車が横倒しになり、砲塔からは黒煙が細く立ちのぼっている。自衛隊の歩兵分隊が警戒態勢を維持しながら、遺棄されたロシア軍の補給トラックに近づいた。
「中を確認する」
班長の短い指示で、二人の隊員が銃を構え、荷台のシートをめくった。
そこに現れたのは、整然と並んだ金属製の箱だった。灰色に光る板金、表面に打ち付けられたリベット、そして蓋の縁を封印する鉛のハンダ跡。見慣れない隊員は一瞬「弾薬箱か」と思った。しかし、班長が低く唸った。
「Cargo 200……」
その言葉を聞いた瞬間、分隊の空気が変わった。誰もが知識としては耳にしていた。ロシア軍が戦死者を輸送するための亜鉛棺。ソ連時代から続く慣行であり、社会に定着した暗い符号。
一人の若い隊員が恐る恐る近づき、表面を手袋でなぞった。冷たい金属は厚く、重く、隙間なく密閉されている。開けることは許されていないのだろう。表記はすべてキリル文字。番号と日付、輸送経路だけが記されていた。
「中には……本当に人が入っているんですか」
呟いた声は震えていた。
班長は答えず、ただ黙って箱を見下ろした。戦場で仲間を失った経験を持つ彼には、この無機質な箱があまりにも異様に映った。遺体を確認させず、密閉したまま帰還させる文化。死者の顔を隠し、家族に真実を知らせない仕組み。
「俺たちの“暫定の箱”とは違うな」
別の隊員が吐き出すように言った。自衛隊が東京壊滅後に導入した白木の箱は、象徴的ではあっても遺族に寄り添うためのものだった。DNAチップを添え、未来への照合を約束した。しかし目の前のCargo 200は、未来を閉ざすための封印のようにしか見えなかった。
若い隊員は言葉を重ねた。
「名前も、顔も、声も……全部、ここで消えてしまうんでしょうか」
班長は答えられなかった。だが、心の奥底で理解していた。ロシアが死者を秘匿するのは、戦争の規模を隠すためであり、社会の動揺を抑えるためだ。死者を数字に変え、棺を無言で運ぶ。そこにあるのは「兵士」ではなく「貨物」だった。
彼らは荷台から数基の棺を慎重に降ろした。金属は驚くほど重く、担ぐ肩に鈍い痛みが走る。その重量が、確かに中に人間を収めていることを告げていた。だが棺は沈黙を守り、死者の個性を一切語らなかった。
ICRCの現地担当者が到着し、記録を始めた。番号を控え、座標を入力し、国際データベースに登録する。
「遺族に知らせることは困難でしょう。しかし、存在だけは記録に残せます」
淡々とした言葉に、隊員たちは複雑な思いを抱いた。
夕暮れ、分隊は撤収の準備を整えた。亜鉛棺は冷たい光を放ち、雪解けの泥に沈んでいた。その光景を見つめながら、若い隊員は深く息を吸い込んだ。
「俺たちは……こんなふうにしたくない」
班長は頷き、短く言った。
「だからこそ、俺たちは名を返す。番号じゃなく、名前で」
その言葉が、分隊全員の胸に重く刻まれた。Cargo 200が象徴するのは「死者の秘匿」だった。だが日本が選ぶべき道は、その逆――死者を記録し、名を呼び戻す未来志向の文化だった




