第87章 暫定の箱
東京が沈黙した直後、誰もがまず思い浮かべたのは「死者をどうするのか」だった。
核の閃光と地震、津波が街を呑み込んだ後、瓦礫の下には数えきれない遺体が眠っている。しかし放射線、倒壊建物、火災、不発弾――どれもが救助隊の侵入を阻み、実際に収容できた遺体はごくわずかに過ぎなかった。
厚労省と防衛省は緊急協議の末、「暫定の箱」制度を発動することを決めた。かつて太平洋戦争で、遺体の代わりに髪や爪、あるいは土を納めて遺族へ渡した「白木箱」の記憶を、誰もが知っていた。しかし今回はそれに加え、科学の時代にふさわしい手順が組み込まれていた。
避難所の一角に設けられた簡素な祭壇。自衛官たちが黙々と作業を進める。小さな白木の箱の中に、被災地から採取した土砂や瓦礫片、あるいは火災現場で見つかった焼け残りの布地を納める。その横で技官がPCR採取用の綿棒を操作し、残された血痕や皮膚片からDNAを抽出する。結果はマイクロチップに記録され、箱の蓋の裏に貼り付けられた。
「これが……暫定の帰還、ということか」
一人の隊員が箱を抱きながら呟いた。
彼の前に立つ老夫婦は、声を失ったまま箱を見つめていた。中に息子の遺体が入っていないことは承知している。それでも、手渡された箱の重みを抱きしめ、泣き崩れた。彼らにとって大切なのは「帰ってきた」という事実だった。
制度設計者の一人である若い女性技官は、胸の奥で複雑な思いを抱いていた。
――これは象徴でしかない。だが同時に、未来へ続く鍵でもある。
チップに記録されたDNAデータは、将来の鑑定技術の進歩によって、今は埋もれたままの遺体を「名ある存在」として呼び戻す可能性を残している。
夜、体育館の隅で彼女は隊員たちと小さな打ち合わせをした。
「明日の配布分、三十箱です。各世帯に直接手渡しをお願いします。必ず対面で、言葉を添えてください。番号やデータは冷たいものです。けれど……一人一人に尊厳があることを忘れないでください」
翌朝、彼女自身も一つの箱を抱えて避難所の通路を歩いた。年配の女性が震える手で受け取ったとき、彼女はそっと言葉を添えた。
「ここに入っているのは象徴です。でも、DNAは確かに残しています。未来に、必ず名を呼び戻せるように」
女性は涙を流しながら、何度も頷いた。
「ありがとう……ありがとう……」
体育館の隅に積み上げられた白木の箱の列は、戦後の光景を思わせた。しかし一つ違うのは、そこに「未来への接続」が刻まれていることだった。旧軍の時代には叶わなかった科学の約束が、この小さなチップに込められていた。
技官はふと、自分の祖母から聞いた話を思い出した。戦後、祖母は白木の箱を受け取った。中には髪と爪が収められていたという。祖母は「これが父だ」と自らに言い聞かせ、泣きながら抱きしめた。だが祖母は亡くなるまで、「本当に父だったのか」と口にし続けていた。
――同じ過ちを繰り返さない。
彼女は自らに言い聞かせた。
作業が終わった夜、技官は窓の外を見つめた。崩れた都市の闇の中に、数えきれぬ死者が眠っている。彼らをすぐに救い出すことはできない。だが、その名を奪わないことはできる。暫定の箱はそのためにあるのだ。
遠くで自衛隊の車両がエンジンをかける音がした。明日もまた、白木の箱は作られ、渡されていく。
そしていつか、科学の手によって、この象徴の箱は「真の帰還」へと変わる日が来るだろう。その日を信じるしかなかった




