第75章 命綱の海
東京湾に浮かぶ《大和》の艦橋に、参謀たちの影が集まっていた。かつて首都の中心だった霞ヶ関は焦土と化し、今やこの巨大な艦が「臨時の作戦司令所」として機能している。艦橋の壁に投影された作戦地図には、赤線で描かれた航路が伸び、フィリピン東方から日本南岸へ向かう一本の線だけが命綱のように光っていた。
「護衛艦は足りません」
米第七艦隊の作戦参謀が低い声で切り出した。
「台湾、朝鮮半島、北海道に戦力を割いている。今回の船団に付けられるのは、イージス艦一隻とフリゲート一隻。それ以上は無理だ」
ざわめきが広がる。海自の将官がすぐに応じた。
「自衛隊側も同じだ。対潜哨戒機は稼働率六割、護衛艦は半数以上が修理待ち。港湾防衛に残す分を削れば、この船団を守れるかもしれないが、次はどうする?」
長机の上に置かれた紙束は、稼働率と消費量を示す冷徹な数字で埋め尽くされていた。航空自衛隊の参謀が指を走らせながら言った。
「燃料があと二週間で底をつく。補給がなければ、戦闘機の稼働率は三割まで落ちる。艦艇は出港不能、陸上部隊の機動も止まる。つまり戦線は瓦解する」
重苦しい沈黙。艦橋の外では、夜の東京湾にかすかな風が吹き抜け、波が鉄の舷側に叩きつけられていた。《大和》自身も大量の燃料を食らう巨体だ。参謀たちは、その矛盾を口には出せなかった。
「では、どうする」
首相代理が静かに問いかける。
米海軍の参謀は目を閉じ、深く息を吸った。
「最低限の護衛で、出すしかない」
海自の将官が苦々しく笑った。
「要するに、運を天に任せると」
「そうだ。だが出さなければ、確実に負ける」
声は鋭く、しかし揺るぎなかった。
決断は下された。最低限の護衛で、次の輸送船団を送り出す。参謀たちは紙束を閉じ、命令文にサインを落とした。それが何を意味するか、全員が理解していた。護衛艦の数は少なすぎる。潜水艦の雷跡が走れば、守れる保証はない。それでも燃料を送らねば、この国は一週間と持たない。
艦橋から甲板に降りると、潮風が肌に刺さった。そこには、出航を待つ船員たちが集められていた。中東から燃料を運んできた民間タンカーの乗組員、徴用された日本の商船員、そして米軍補給艦のクルー。誰もが疲れ切った顔をしている。それでも彼らは黙々とロープを確認し、タラップを上り下りしていた。
「次は俺たちが沈むかもしれん」
誰かが小さく呟いた。隣の若い船員は苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「それでも行くんだろ。俺たちが行かなきゃ、戦線は死ぬ」
艦首に立つ《大和》の士官が、そのやり取りを聞き、拳を固く握った。彼ら民間人が背負っているものは、軍人のそれと変わらない。燃料を運ぶこと、それ自体が戦闘行為に等しかった。
沖合には、次の船団を組むタンカーが黒い影を並べていた。護衛艦の数は少ない。だが艦橋から見えるその姿は、確かに国を生かすための命の列だった。
「海そのものが戦場だ」
参謀の一人が呟いた。
誰も否定しなかった。波間に見えるのは、ただの水ではない。国を延命させる血流であり、敵の狙う標的であり、人間たちの命を繋ぐ細い綱だった。
やがて汽笛が鳴り、船団は静かに動き出す。東京湾の闇に、命綱の海が広がっていた




