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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン10

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第74章 鉄路の動脈



 伊方の湾奥でタンク列車は静かに息を吸い込むように燃料を飲み込み、夕闇のはじまりを待った。積み込みヤードは完全消灯、作業員は暗視装置と赤外マーカー。コンプレッサの低い鼓動だけが、黒いシリンダ群の腹を震わせている。構内無線に短い号令が走る。


 「一番列車、積載完。制動試験、良好。発車許可を」


 先頭の電気機関車は戦時改装で前面に簡易装甲、側面には赤十字ではなく識別の白線。運転士の隣には、小銃と短波機を抱えた護衛兵が座る。後部には自衛官の分隊が同乗し、車掌室には応急用消火剤と止血帯が積まれていた。線路脇では、陸自の小隊が橋梁直下に伏せ、夜目に光る照準器を点検している。


 「出すぞ」


 機関車が唸り、連結器が一つずつ硬く噛み合う感触を尾まで伝える。列車は海霧を割って動き出した。最初のカーブを抜けると、右手に黒い海、左手に断崖。海から吹き上げる潮風が金属の匂いを濃くし、車輪は湿ったレールを丁寧に噛む。


 伊方から松山へ。沿線は灯火管制で真っ暗だが、ところどころに避難所の小さな窓明かりがあり、人影が線路へ手を振る。誰にともなく、列車は短く汽笛を鳴らした。運転士は前方の黒に目を凝らしながら、耳は無線の雑音を拾う。


 《各警備点、ナンバー6通過。異常なし》

 《第二橋梁上、風速八。列車速度維持》

 《トンネル警備、排気良し。警戒度2》


 橋梁ごと、トンネルごとに警備部隊が配置されている。橋の両端には軽装甲機動車、夜間赤外線監視装置が川面の揺らぎの中に不自然な熱源がないかを探す。トンネルの坑口には発電機が回り、手回しの障害物撤去器具が整然と並んでいる。誰もが眠気を押し下げ、列車の通過時刻に全神経を合わせていた。


 松山構内へ滑り込むと、電源きらめく駅舎はすでに戦時の顔つきだ。ホームの照明は半分、天井には防爆パネルが増設され、構内踏切にはコンクリ障害。連絡線上で二番列車が積み込みを待っている。一番列車は通票を受け取り、停車せずに通過。構内スピーカーが低い音量で流す。


 「タンク列車第一、予定どおり。次、連絡橋防空隊、配置換え」


 車内の護衛兵が窓外を一瞥し、運転士に囁く。「ここからが長い」。瀬戸内沿いの緩やかな曲線は、海と街のどちらからも見通されやすい。被弾すれば連結部が裂け、火海になる。それでも止まれば、戦線が止まる。


 中間車掌室では、年配の車掌と若い自衛官が紙コップの水を分け合っていた。車掌は古い懐中時計を見て言う。

 「昔はコンテナに家電が詰まってた。いまは燃料と、避難用の毛布だけだ」

 自衛官が頷く。「燃料を運ぶこと自体が戦闘です。昨日、名古屋で聞きました。油が途切れた部隊は、敵に撃たれなくても止まる」


 列車は勾配を上り、トンネルへ吸い込まれていく。坑内に入ると、鉄の匂いが濃くなる。先頭から最後尾まで、鈍い響きが連なる。坑口警備の無線が弾む。


 《坑内異常なし。通過良し》

 《後尾確認。しんがり、よし》


 大阪へ向けて速度を上げようとしたとき、防空警報が割り込んだ。甲高いサイレンは鳴らず、戦時特例の短波コードが通信機の中で点滅する。運転士がブレーキ弁をわずかに引き、列車は惰性で速度を落とす。


 「停まるか?」

 護衛兵が問う。運転士は首を振る。

 「停まれば、上から見える。橋の上はもっと危ない。次の退避線まで持つ」


 無線に各警備点の声が重なる。

 《第三橋梁、遮蔽進入》

《トンネル隊、口封鎖準備》

《列車第一、速度維持可。空域監視に移行》


 前方の暗闇で、小さな白がちらついた。遠方に、味方の対空監視車両が照準を上げた合図だ。護衛兵は機関車の側窓から上を仰ぎ、夜空の輪郭を探る。影は来ない。サイレンの合間に、海の低いうなりが戻ってくる。


 「通過する」


 運転士はブレーキを解き、わずかにノッチを入れる。車輪が乾いた音を立て、列車は再び速度を取り戻す。車内の無線に、掌握された空域状況が短く落ちる。


 《誤報。敵影なし。列車第一、そのまま大阪方面へ》


 張りつめた空気が、少しだけ緩んだ。車掌が深く息を吐き、若い自衛官は肩の力を抜く。しかし視線は前へ向いたままだ。次の橋、次のトンネル、次の退避線。列車は脆弱な血流であり、止まれば心臓が止まる。


 夜半、愛媛と香川の県境を抜ける。瀬戸の潮が風向を変え、塩の匂いが薄れる。車内の計器に、タンク内温度と圧の微妙な揺れが表示され、運転士は指先でテンキーをたたいて冷却ファンを一段上げた。護衛兵が問う。


 「怖くないんですか」

 「怖いさ」運転士は正直に答える。「でもな、あんたが握ってる銃より、このブレーキの方が今夜は強い。俺がこの速度を外したら、橋の上で止まる。止まったら全部終わる」


 大阪圏が近づくにつれ、線路脇の防御は厚くなる。高架下には土嚢の列、インターチェンジには警察と自衛隊の検問、側道には消防と医療班。構内信号は最低限の明滅しかせず、入換係は手旗の代わりに赤外灯を振る。列車は構内指示に従って側線へ滑り、受けのタンクヤードへと引き渡される。


 停止。エアが抜け、空気が戻る音がする。運転士はブレーキ弁から手を離し、ゆっくりと指を握り直した。護衛兵は無線で後尾へ連絡を入れ、車掌がドアを開ける。外は冷える。大阪の夜気は、海の匂いよりも油の匂いが強い。


 「到着、記録。遅延なし」


 荷役クルーが素早くホースを繋ぎ、バルブが開かれる。暗闇の下、金属配管のどこかで嗚咽のような音がして、やがて安定した流れに変わる。脇では次発の編成が身じろぎを始めていた。伊方に、もう一度戻るのだ。


 構内スピーカーが低く告げる。「第一、引き上げ。第二、入換。第三、準備」。どこかの避難所の子どもが、線路越しに手を振った。護衛兵は小さく手を上げ、すぐに視線を戻す。灯火管制の町並みの向こう、黒い空の奥に、まだ見ぬ港と海が連なっている。


 運転士は運転台の金属を軽く叩き、次の時刻表を目で追った。眠気は来ない。来たとしても、列車が飲み込む。燃料を運ぶこと自体が戦闘――その言葉は誇張ではなかった。橋を渡るたび、トンネルを抜けるたび、彼らは一つの前線を越えている。


 やがて無線が鳴る。

 《伊方ヤードより、積込完了。折返し時刻、予定どおり》

 返答は短く、正確だった。

 「了解。こちら大阪。鉄路は生きている。次も、通す」


 列車は再び、闇の中へと溶けていく。脈打つ金属の列が、国の体温を運んでいるかのように。止まれば死ぬ。だから動く。昼夜の区別も、終点の実感もないまま、鉄路の動脈はなお細く、しかし確かに流れ続けていた。

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