第64章 深海の帰還:絶望の報
1945年8月。マリアナ諸島東方海域での死闘を終え、原子爆弾輸送艦インディアナポリスの撃沈という、歴史を揺るがす一撃を放ったそうりゅう型潜水艦「そうりゅう」は、伊号第五十八潜水艦(I-58)の悲劇的な犠牲を胸に、沖縄への帰路を辿っていた。深海を滑る艦体は、AIPシステムによる静音潜航を維持していたが、艦内の空気は重く、乗員たちの間には、燃料残量への不安が静かに広がっていた。
司令室。艦長・竹中二等海佐は、メインモニターに表示される燃料計の数字を凝視していた。数字は、刻一刻と減り続けている。 「機関長、燃料残量は?」竹中艦長が静かに問うた。 佐久間機関科先任曹長の声は、疲労を滲ませていた。「艦長、ギリギリです。このペースで航行を続けても、沖縄到着まであと三日が限界かと。予備タンクを含めても、予断を許しません」。彼の顔には、この艦の推進力を維持する重責が色濃く刻まれていた。
副長・深町洋二二佐は、腕を組み、航海図を見つめていた。「沖縄までは、まだ距離があります。この海域は、米軍の哨戒が厳重だ。浮上して充電するリスクは高い」。
ソナー員・石倉先任伍長は、ヘッドセットを耳に押し付け、周囲の音紋に全神経を集中させていた。彼のソナーは、微細なノイズの中から、遠くの米軍艦艇のスクリュー音や、航空機のエンジン音を拾い上げていた。
その時、石倉のヘッドセットから、微かな、しかし聞き慣れた信号音が飛び込んできた。それは、沖縄との通信が途絶えて以来、一度も捉えられなかった、日本の通信波形だった。 「艦長!微弱ですが、沖縄からの通信波形を捕捉!識別信号…『いずも』です!」石倉の声に、興奮と、しかし一抹の不安が混じっていた。
司令室に、ざわめきが起きた。沖縄との交信は、ロナルド・レーガン空母打撃群による総攻撃が始まって以来、完全に途絶えていたのだ。 竹中艦長の顔に、緊張が走る。「直ちに接続せよ!通信士、感度を上げろ!」
ノイズ混じりの無線が繋がり、三条巡査長の声が、途切れ途切れに聞こえてきた。彼女の声は、疲弊しきっているが、必死に状況を伝えようとしているのが分かった。 「…こちら…『いずも』…そうりゅう…応答せよ…」 「こちら『そうりゅう』、竹中だ!応答せよ、三条!沖縄の状況を報告しろ!」竹中艦長は、焦燥を抑えきれない声で叫んだ。
無線から聞こえてきたのは、想像を絶する、絶望的な報告だった。 「…艦長…沖縄の…防衛ラインは…壊滅状況に…あります…」三条の声は、震え、途切れがちだった。「…ロナルド・レーガンの…圧倒的な…攻撃力で…我々の…防衛線は…決壊…海自の…乗員の…半数近くが…戦死…残りの…大部分が…重軽傷…『いずも』も…『むらさめ』も…もはや…艦体を…維持するのが…限界です…」
司令室の空気が、凍りついた。竹中艦長の顔から、みるみる血の気が失せていく。深町は、その場で立ち尽くし、石倉はヘッドセットを握りしめたまま、信じられないという顔でモニターを見つめていた。佐久間は、機関室からの報告を待っていたが、その耳には、三条の声が、まるで遠い悲鳴のように響いていた。
「…米軍は…ビーチに…上陸を…許しました…M1エイブラムスが…地下壕を…焼き払い…牛島司令官の…守備隊も…壊滅的な…損害を…受けています…」三条の声は、もはや嗚咽に近かった。「…沖縄は…陥落寸前です…!艦長…!」
無線は、そこで途絶えた。再び、ザーッというホワイトノイズだけが響く。 司令室に、重い沈黙が降り注いだ。彼らが、インディアナポリスを沈めた代償として、沖縄に残した仲間たちが、想像を絶する地獄の中で戦い、そして散っていったのだ。本土への帰還を目前にして、彼らは、故郷の最前線が、既に壊滅状態にあるという、残酷な現実を突きつけられた。
竹中艦長は、ゆっくりと目をつむった。彼の脳裏には、沖縄を後にする際の渡会艦長、山名、三条、そして佐久間ら転属者たちの顔が浮かんでいた。彼らは、大和と「まや」を本土へ帰すために、自らの命を賭してロナルド・レーガンを引きつけ、戦い抜いたのだ。
「…佐久間」竹中艦長の声は、震えていたが、その奥には鋼のような決意が宿っていた。「残燃料で、沖縄本島まで…行けるか?」 佐久間は、顔を上げ、艦長の目を見つめた。その瞳には、絶望と、しかし最後の希望が混じり合っていた。「艦長…全力を尽くします。…」