第58章 津波の爪痕
湾岸の街は、泥と瓦礫に埋め尽くされていた。
江東区の東雲や辰巳の高層住宅群は、一見すると外形を保っていたが、一階部分は泥に沈み、駐車場の車は横倒しになっていた。中央区晴海のタワーマンション群も、低層部のロビーは水浸しで、海水に浸かった電気設備はすべて焼き切れている。津波は十五メートル。港湾の防潮堤も河川の水門も、ことごとく呑み込まれた。
路地に残された泥は、ただの土砂ではなかった。油、下水汚泥、化学薬品が混ざり、腐敗臭が鼻を刺す。靴底にまとわりつく黒褐色のぬかるみは、日ごとに腐敗し、熱を帯び、白い泡を吹いた。津波で流れ着いた魚や小動物の死骸が散乱し、夏を迎える頃には蝿と蛆が街を覆い尽くした。
「吸入注意、ガスマスクを外すな!」
自衛隊の防疫班が叫ぶ。油分を含んだ泥からは揮発性ガスが発生し、めまいや吐き気を訴える作業員が続出していた。港湾局が急造したポンプ車で排水を試みるが、地盤沈下で低地に溜まった汚水は容易に引けない。中和剤を撒き、仮設堤を築いても、次の大雨で再び街は茶色の湖に戻る。
津波の塩害も深刻だった。街路樹はすべて枯れ、コンクリート壁には白い塩の結晶が浮かび上がる。地下鉄のトンネルは塩水で満たされ、錆びたレールが軋んで崩落した。水道管の多くも腐食で使用不能となり、仮設の給水車だけが命綱だった。
衛生状態は限界に近づいていた。避難所に残った人々は、汚染された泥に囲まれて生活し、下痢や発熱を訴える者が増えた。医療班は「細菌性赤痢」「レプトスピラ症」の可能性を警告した。仮設トイレの数は不足し、排泄物が雨で溢れ出すたびに感染リスクは跳ね上がる。子どもたちは裸足で瓦礫を駆け回り、切り傷から感染症を発症するケースが後を絶たなかった。
塩にやられた土地は農地としても使えない。江戸川区の畑は壊滅し、近隣の住民は「土が死んだ」と口々に言った。塩分を洗い流すには何年もかかり、農業再生は事実上絶望的だった。湾岸一帯は「食料を供給する土地」から「人を病に追い込む土地」へと変わってしまった。
一方で、津波で押し流された物資の一部は、皮肉にも被災者の命をつないだ。漂着したコンビニの冷蔵ケースから缶詰やペットボトルが発見され、残留住民たちはそれを拾い集め、炊き出しを続けた。腐敗した食品と、まだ食べられるものを見極める作業は命懸けであり、誤れば食中毒が命を奪った。
「ここはもう、都市ではない」
港湾局の技師が、泥に埋まった豊洲市場の骨組みを見上げながら呟いた。数年前まで数万人の食を支えた巨大市場は、今や鉄骨の骸骨と化していた。魚を捌く台は泥に沈み、冷蔵庫は横倒しのまま錆に侵食されていた。
東京湾岸の津波被災地は、ただの「片付け」では済まない領域だった。衛生、塩害、地盤沈下、油汚染――問題は複合的に絡み合い、解決には数十年単位の時間が必要だった。
そして誰もが理解していた。この土地に人が戻るかどうかは、もはや政治判断の域にあると




